去年の元旦、その前日の大晦日に、皆さんとご一緒に一子を送った悲しみのうちに過ごしたことが、昨日のことのように、しかし同時に、はるか遠い昔のことのように思い出されます。遠い昔のように感じるのは、多分、この一年、一子の遺産であるバッハの森を続けなければ、という思いに駆られて無我夢中で活動した結果、余りにも多くのことが起こったせいでしょう。
3月に「石田一子を記念する集い」、6月と11月に、それぞれ“グローリア”と“主の祈り”をテーマとする「レクチャー・コンサート」、12月に「クリスマス・コンサート」、その間に、毎週、これらのコンサートのための合唱とハンドベルの練習、それに「コラールとカンタータ」とその準備のための2つのセミナーとオルガン・レッスン、更に秋には「クラヴィア・ユーブング第III部」のセミナーが毎月1回始まり、聖書の読書会も毎週続けました。
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私が驚くのは、これらの活動に、よくぞ皆さんが参加し続けてくださったということです。直接に参加した方だけではありません。バッハの森には、直接参加ができなくても、長年にわたって応援してくださるサポーターが大勢います。ともかく、1ヶ月の服喪休館で始まった一年、“まとめ役”を失って精神的にも実際的にも生じた困難を一緒に乗り越え、例年通り活動できたことを本当に深く感謝しております。
それにしても、どう参加するかということについて、バッハの森は全く自由な組織です。各人、自分の都合に会わせて参加できますし、止めるのも自由です。こういう自由な組織に、なぜある人たちは何年も何年も参加し続けるのでしょうか。この人たちにとってバッハの森は“かけがいのない”ものになっているとしか考えられません。そうです、バッハの森の面白さに“夢中”になっているのです。
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ここで私は「言葉は肉となり、私たちはその栄光を見た」という聖書の言葉を思い出します。平易に解釈すれば、神の救いという“言葉”、すなわち、“考え”が、イェス・キリストという“肉”、すなわち人として“出現”したので、“彼の栄光を見た”、すなわち、“彼に夢中になった”という告白です。
比較すると、“考え”が“出現”或いは“実現”したということについては、バッハの森も同じです。一子が一生かけて追い求めた理想の教会音楽という“考え”が、バッハの森として“実現”したのですから。しかし「理想の教会音楽とは何ですか?考えたこともない」と言う人がいるかもしれません。当然です。バッハの森は前提となる知識や資格を問わない自由な学び舎ですから。
ただ、意識していてもいなくても、バッハの森で響いている音楽は教会音楽です。具体的に言えば、ここで“実現”しているバッハ、シュッツ、パレストリーナ、ヴィクトリアなどの教会音楽に私たちは夢中になっているのです。
こういう音楽になぜ私たちは夢中になるのでしょうか。その秘密は、気付いていない人もいますが、聖書の“言葉”が音楽として“実現”していることなのです。この秘密を探り出すと、教会音楽の響きにもっと夢中になれることをご存知ですか。皆さん、今年は聖書を読んでみませんか。
(石田友雄)
*このメディタツイオは、「クリスマス・コンサート」(2009年12月20日)で朗読されました。
クリスマスは、一部の地域と人々を除き、世界中でお祝いするお祭りになりました。申すまでもなく、本来、クリスマスは、イェス・キリストの降誕を記念する教会の祭日です。ただし12月25日にクリスマスを祝うのは、西欧とアメリカ、及びその文化的影響を受けた日本のよう地域の習慣で、東方教会の降誕祭は(21世紀では)1月7日です。
ところで12月25日は、元来、ローマ帝国の冬至祭でした。冬至は一年を通じて昼が最も短く、夜が最も長くなる日です。それと同時にこの日を境に昼は再び長くなり始めます。そこで古代ローマの人々は、死から復活した「不滅の太陽の誕生の祭」として、12月25日に冬至祭を祝いました。これに対して、4世紀にローマ帝国の公認を受けた教会は、この日を「正義の太陽」であるキリストの降誕を祝う祭日と定めました。これが12月25日にクリスマスを祝う習慣の始まりです。
では、イェス・キリストの本当の誕生日はいつだったのでしょうか。キリストの生涯について伝える最も古い史料は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書ですが、そのどこにもイェス・キリストの生年月日は記録されていません。彼の誕生について、マルコは一言も語らず、ヨハネは「言葉が肉となった」というような神学的、哲学的な説明をするだけです。マタイとルカは、それぞれ全く違う降誕物語を伝えますが、そのどちらからもナザレのイェスの誕生日を読みとることはできません。
実は月日はおろか、イェスが何年に生まれたかということすらはっきりしないのです。では日本で西暦と呼ばれる暦は何なのでしょうか。これはラテン語で「主の年に」を意味するAnno Domini(AD)のことで、6世紀にローマの学者が復活祭の周期から選定した紀元です。それがキリストの誕生した年から年を数えるキリスト紀元として一般に流布されました。もともとキリストの誕生年の考証に基づく暦ではありませんから、西暦0年にキリストが誕生したことを証明しているわけではありません。結局、イェス・キリストの正確な生年月日は誰にも分からないのです。これはどういうことなのでしょうか。
キリスト時代に関する新約聖書以外の史料として、ヨセフスというユダヤ人が著作した歴史書があります。そこには、ローマ皇帝やヘロデのような当時の支配者やローマ人総督のような政治家から、過激派のリーダーやバプテスマのヨハネのような宗教家のことまで詳細に報告されていますが、ナザレのイェスについては、一言も語られていません。
このように、誕生年がはっきりしないことや、同時代の歴史家に無視されていることから推察すると、当時、ナザレのイェスは、福音書から受ける印象とは違って、無名の人物だったと思われます。
それでも、エルサレム郊外の刑場ゴルゴタで処刑されたときは、世間の注目が集まったはずです。しかし、ローマ人はこの種の公開処刑を頻繁に行っていましたから、実際には、イェスもその他大勢の犯罪者の一人として処刑されたに過ぎないようです。このときも3人一緒に処刑されています。
このとき、イェスは、ユダヤ人共同体の指導者たちから神を冒涜したかどで告発され、ローマ人からはローマ帝国の支配に対する反乱罪によって死刑の判決を受けました。いずれも無実の罪でしたが、ユダヤ人共同体の指導者たちも、ローマ人総督も、民衆を惑わす者として、イェスを許すことができませんでした。彼の活動が彼らの支配と絶対に相容れないことに直感的に気づいたようです。
それは、神の国が地上に出現し、神の正義の支配がこの世で実現することを追い求める活動でした。ただし、この世の支配者や革命家のように、軍事力と経済力に支えられた権力によって、神の国を実現しようとしたわけではありません。イェスは、病気や障害のため、差別され、しいたげられ、搾取されている弱い人々、貧しい人々を見ると、心中に湧き起こる憐れみの情を押さえきれず、彼らを癒し、慰め、元気づけたと福音書は伝えます。確かに彼は支配者たちの不正と偽善を鋭く批判しました。しかし、武力に訴えて抵抗しようとする者に対しては、「剣を取る者は剣で滅びる」と言って戒めました。
では、どのようにして神の国をこの世に実現しようと考えていたのでしょうか。本来、政治活動を目指していなかったイェスは、組織的な行動計画のようなものは語りませんでした。ですから、残された断片的な教えやエピソードから推測しなければなりません。例えば、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟だ」と語りました。彼が実践しているように、困っている者を助け、悲しんでいる人を慰める愛の行動にみんなが参加すれば、自ずから神の国は実現すると、素朴に考えていたのでしょうか。
ともかく、エルサレムからはるか遠くのガリラヤ地方で活動している間は、彼の言動を快く思わない人々も黙認していましたが、エルサレムに上京して来た彼を民衆がメシアとして歓迎すると、ユダヤ人共同体の指導者たちは、彼が危険人物だと悟り、排除する決心をしました。事態は急展開し、瞬く間に彼は逮捕され、死刑の判決を受け、ゴルゴタの刑場で十字架につけられてしまいました。神の正義の実現を目指した愛の実践活動は、この世の権力によって、いとも簡単に押しつぶされてしまったのです。新約聖書は、これらの成り行きを彼が最初から予期していたように伝えますが、果たしてそうだったのでしょうか。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、十字架上で最後に叫んだとき、彼は神の国の実現に失敗したことを悟り、絶望して死んだとしか考えられません。
この事件の後で不思議なことが起こりました。一旦四散したイェスの弟子たちが集まり、ナザレのイェスはキリストであったという説明と共に、彼の教えを述べ伝え始めたのです。「キリスト」とはヘブライ語「メシア」のギリシャ語訳で、ギリシャ語はローマ帝国全域の共通語でした。こうして、キリスト教が始まり、ナザレのイェスはキリストという礼拝対象になりました。やがてキリスト教はローマ帝国全域に広がり、300年に及ぶ弾圧に耐えて帝国の公認を受けると、4世紀末にローマ帝国の国教になりました。その後さらにキリスト教がヨーロッパから全世界に広まったことはご存知の通りです。
この歴史は、ナザレのイェスの活動が正しかったことを人々が認めたということでしょうか。ことはそれほど簡単ではありません。もちろん、キリスト教を後世に伝える教会がなかったら、その後、誰もナザレのイェスと出会うことはできなかったでしょう。しかし、政治権力と手を結んだ教会から、彼の本当の姿は消えてゆきました。中世の教会が組織した十字軍はその顕著な例です。ヨーロッパからエルサレムを目指した遠征軍は、キリストの名の下に略奪と殺戮の限りを尽くしました。
いずれにしても、キリスト教徒を含む全人類は、今日まで、絶え間なく戦争を続けてきました。しかも科学技術が飛躍的に発達した20世紀になると、大量殺戮を始めました。確かに20世紀後半は核の抑止力が働き、世界大戦は起こりませんでしたが、人々の対立はいよいよ先鋭化し、世界各地で紛争が続いています。このような状況下に、最近、ノーベル平和賞を授与された政治家がその授賞式で「正義の戦争」の遂行を宣言しました。まさにブラックユーモアですが、彼を笑える人は誰もいません。「正義の戦争」、「平和のための戦争」という主張こそ、絶対に地上から戦争がなくならない原因だからです。
それにもかかわらず、人々はいつでも平和を願い求めてきました。この平和への切実な願いに応えた人に相応しい誕生物語をルカが伝えます。旅先で人並みに宿泊する所もなく、月が満ちたマリアから生まれた幼な児が、飼い葉桶に寝かされたというエピソードは、生まれたときから、彼がこの世の成功、名声、栄華を追い求めない人生を歩んだことを象徴しています。このとき天使の群れが「いと高きところにいます神に栄光があるように」と歌った讃美は、誉め称えられる方は神のみという告白です。裏返せば、自分は誕生日も伝えられない無名人に終わっても、神の国の正義を求めたために犯罪者にされても、神の国を実現できなかった失意のうちに死ぬことになっても、すべてを良しとした人の生き方です。そして、このような人がいたことが、地上に平和が実現する可能性を残していると、ルカは告げるのです。
平和を願い、2000年間、クリスマスを祝うことを止めなかった人々と共に、私たちも飼い葉桶に寝かされている幼な児を見つめてみませんか。本当の平和への道が見つかるかもしれません。
(石田友雄)
新しい年に新しいセミナー「コラールを歌う」を始めます。ここでは参加者は、コラールの歌唱とその伴奏付けをともに学びます。
このセミナーを始めようと思った動機は2つ。ひとつには、純粋に「もっともっとコラールを歌う機会が欲しい」という思いと、もうひとつは、いつもクワイアが友雄先生から「歌詞がはっきり聞こえない」とご指摘を受けていることを克服したいという思いと、です。
コラールを自分で歌ってみて自身の理解を深める事は、それはそれで意義深いものですが、それをさらに、聴く人にも伝わるように歌う、というのは難しい事です。一語一語はっきりと発音するだけでは文章になりませんし、つながりが滑らかでも文章を棒読みしては内容が伝わらない。つまりは朗読するように歌わなければ人には伝わらないのです。セミナーでは、朗読から歌にする過程を大切にしながらコラールを歌いたいと思います。
そして、適切な伴奏はコラールの理解を助けます。伴奏付けの指導をメルカールトさんにお願いし、通奏低音の基礎を学びたいと思います。一子先生が生前、オルガンを習いたい、とバッハの森を訪れた方に対し「オルガンをここで弾きたいなら合唱に入って歌いなさい」と強く勧めておられた事を今も思い出しますが、その逆もまた真です。歌う人もただ歌うだけではなく、コラール伴奏ができるようになることを目指しながら、歌の世界を広げていきたいと思っております。
(比留間恵)
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*昨年の5月以来、ジャン=フィリップ・メルカールトさんが、バッハの森で、毎週、オルガンのレッスンと合唱の伴奏を担当し、コンサートのオルガニストを務めています。今回、次のようなエッセイを寄稿してくださいました。(原文英語)
オルガン演奏の最も難しい点は、どのようにして表現をするかということです。オルガンは素晴らしい楽器だが、本質的に無表情だと、ときに言われます。実際、オルガンは音栓を変える以外に強弱をつけることができないように見えます。このような欠点を持つ楽器が他にあるでしょうか。ヴァイオリン奏者やフルート奏者が陰影を付けずにフレーズを演奏したり、抑揚なしに合唱することは到底考えられません。
それにもかかわらず、大作曲家たち、特にJ. S. バッハは常に表現豊かなオルガン曲を多数作曲しました。オルガンは決して単に機械的な楽器ではないのです。ここでバッハ自身が、クラヴィアのための『インヴェンション』(BWV 772〜786)のとびらに書いた言葉を思い出してください。
「正しい指導において、クラヴィアを熱心に学ぼうとする人々は、2声で明瞭に演奏することを学ぶだけではなく・・・特にカンタービレ(歌うような)奏法(eine cantable Art im Spielen)に到達すること・・・が示される」。
ここから“カンタービレ奏法”(すなわち表現に富む解釈)がバッハにとって非常に重要だったことが分かります。この奏法がオルガンでも可能なら、オルガンの大変魅力的な演奏ができるはずです。難しいことですが…。
この奏法を学ぶために、バロック時代のドイツ・コラールよりよい教材はありません。実際、前奏曲とフーガやソナタのような世俗曲とは違って、オルガンのためのコラール編曲は、歌詞と直接結びついており、歌詞は、その曲の全体的な“アフェクト”(情緒)やイメージやシンボルなど、オルガニストのための貴重は情報を沢山含んでいるからです。
アルバート・シュヴァイツァー(1875〜1965)が、「バッハの音楽言語の辞典」と呼んだ『オルガン小曲集』(Orgelbuechlein)には、コラールの歌詞の単純で最も包括的な音楽的解釈があります。各コラール編曲は、いくつかの音符からなる、少なくとも一つの非常に特徴的な音形を持ち、それが全曲を通じて発展し、象徴的な信頼できる解釈を可能にします。私の考えでは、これらのコラール編曲を“カンタービレ奏法”で弾くためには、音形に従って各声部にそれ自身の個性とその修辞的な意味を与えて演奏することです。こうすれば、命を吹き込まれた多声楽を聴衆ははっきりと理解することができます。
このような演奏をどのようにして実現したらいいのでしょうか。すでに説明したように、強弱をいろいろ変えることではなく、単に音符の長さを変えて演奏することです。ドイツ語の“バッハ”(Bach)は“川”という意味です。彼の音楽は水のように流れています、完全に規則的ではなく、しかし常に継続的な動きをして。このイメージを用い、音形や抑揚に従って、音符の長さをほんの少し変化させることによって表現するのです。感じれば十分で、感じすぎてはいけません。大変難しいことです。こうして、コラールの歌詞とその音楽的解釈、乃至は、まさに正しい音楽的解釈と信じる方法により、各曲のアフェクトと全曲を通じて表現されるべき曲の性格が示されます。
“カンタービレ奏法”で『オルガン小曲集』や同様のコラール曲集からコラールの奏法を学ぶことは、オルガンの表現豊かな演奏を上達させるためだけではなく、バロックの宗教音楽を学ぶ最良の方法だと思います。
聖書学者の石田友雄先生の指導の下にバッハの森で行われている研究会は、まさにこのような方法で宗教音楽を学んでいます。この研究会では、コラールの歌詞を学んでから、それをバッハのカンタータとオルガン曲と関連させて話し合います。
軽い正確なタッチを持ち、美しい音響で響くバッハの森のアーレント・オルガンも、素晴らしい“教師”です。その響きをただ聴けば、アーレント・オルガンは私たちを最も自然で表現豊かな解釈に導いてくれます。
(ジャン=フィリップ・メルカールト)
10. 2 運営委員会 参加者3名。
10. 18 オルガン修理 三橋利行氏。
11. 6 運営委員会 参加者4名。
11. 29 レクチャー・コンサート「主の祈り」
参加者47名。
12. 4 運営委員会 参加者4名。
12. 12 クリスマス祝会 21名。
12. 14 取材 ラヂオつくばより、飯塚翔太氏。
12. 15 放送(ラヂオつくば)
12. 20 クリスマス・コンサート 参加者63名。
12. 26 昼食と話し合いと清掃 参加者13名。
オルガン見学 河野和雄氏(東洋英和女学院大学講師)他10名。
9. 12 第269回(三位一体後第5主日)、
カンタータ「愛する神にのみ統治させる者は」(BWV 93);
オルガン:J. S. バッハ「同上」(BWV 642)、池田福太朗。
参加者14名。
10. 3 第272回(三位一体後第10主日)、
カンタータ「主よ、あなたの眼は信仰を顧みる」(BWV 102);
オルガン:J. S. バッハ「天の王国にいます私たちの父よ」(BWV 636)、安西文子。
参加者14名。
10. 10 第273回(三位一体後第13主日)、
カンタータ「お前はお前の主なる神を愛さなければならない」(BWV 77);
オルガン: J. S. バッハ「こは聖なる十戒なり」(BWV 635)、海東俊恵。
参加者16名。
10. 17 第274回(三位一体後第14主日)、
カンタータ「感謝を捧げる者、彼は私を称える者」(BWV 17);
オルガン:D. ブクステフーデ「いざ主を誉め称えよ、わが魂よ」(BuxWV 213)より、吉田暁子。
参加者16名。
10. 24 第275回(三位一体後第16主日)、
カンタータ「来たれ、お前、甘い死の時よ」(BWV 161);
オルガン:J. G. ヴァルター「心より私は慕い求める」松村治美。
参加者17名。
10. 31 第276回(三位一体後第18主日)、
カンタータ「主キリスト、神の独り子は」(BWV 96);
オルガン:J. S. バッハ「同上」(BWV 601)、ジャン=フィリップ・メルカールト。
参加者18名。
11. 7 第277回(三位一体後第20主日)、
カンタータ「あぁ,私は見る、今、私が婚礼に行くときに」(BWV 162);
オルガン:J. S. バッハ「すべての人は死ななければならない」(BWV 643)、當眞容子。
参加者15名。
11. 14 第278回(三位一体後第21主日)、
カンタータ「私は信じます。愛する主よ、私の不信仰を助けてください」(BWV 109);
オルガン:J. S. バッハ「アダムの堕落により全く腐敗した」(BWV 637)、松村治美。
参加者16名。
11. 21 第279回(三位一体後第25主日)、
カンタータ「あなた、平和の君、主イェス・キリストよ」(BWV 116);
オルガン:J. S. バッハ「同上」(BWV 1102)、安西文子。
参加者15名。
11. 28 第280回(アドヴェント第1主日)、
カンタータ「お前たち、喜んで高く舞い上がれ」(BWV 36);
オルガン:D. ブクステフーデ「いざ来たりたまえ、異邦人の救い主よ」(BuxWV 211)、池田福太朗。
参加者15名。
バッハの森・クワイア(混声合唱)
10. 3/15名、10. 10/15名、10. 17/7名、10. 24/6名、
10. 31/7名、11. 7/18名、11. 14/18名、11. 21/15名、
11. 28/16名、12. 5/17名、12. 12/16名、12. 19/18名。
バッハの森・ハンドベルクワイア
10. 3/6名、10. 10/5名、10. 17/5名、10. 24/6名、
10. 31/6名、11. 7/6名、11. 14/6名、11. 21/6名、
11. 28/5名、12. 5/6名、12. 12/6名、12. 19/6名。
バッハの森・声楽アンサンブル
10. 3/7名、10. 10/6名、10. 17/6名、10. 24/7名、
10. 31/7名、11. 7/7名、11. 14/7名、11. 21/7名、
11. 28/6名、12. 5/7名、12. 12/7名、12. 19/7名。
教会音楽セミナー(1)
10. 1/9名,10. 15/8名,10. 29/7名,11. 5/7名,
11. 12/7名,11. 19/6名,11. 26/7名。
教会音楽セミナー(2)
10. 3/7名、10. 10/6名、10. 17/7名、10. 24/7名、
10. 31/10名、11. 7/7名、11. 14/7名、11. 21/7名、
11. 28/5名。
教会音楽セミナー(3)
10. 27/8名、11. 24/8名。
入門講座:聖書を読む
10. 2/5名、10. 9/5名、10. 16/5名、10. 23/5名、
10. 30/5名、11. 6/5名、11. 13/5名、11. 20/5名、
11. 27/5名。
オルガン教室
10. 1/3名、10. 15/3名、10. 29/3名、11. 5/3名、
11. 12/4名、11. 19/3名、11. 26/2名。
オルガン練習
10. 1/4名、10. 2/4名、10. 3/3名、10. 6/2名、10. 7/4名、
10. 8/2名、10. 9/2名、10. 10/3名、10. 13/2名、
10. 15/2名、10. 16/3名、10. 17/3名、10. 19/3名、
10. 23/4名、10. 24/2名、10. 27/1名、10. 28/4名、
10. 29/2名、10. 30/5名、10. 31/1名、11. 2/1名、
11. 4/2名、11. 5/3名、11. 6/5名、11. 7/2名、11. 10/1名、
11. 11/2名、11. 12/2名,11. 13/3名,11. 14/2名,
11. 17/2名,11. 18/4名,11. 19/2名,11. 20/2名、
11. 21/2名、11. 22/1名、11. 23/1名、11. 24/2名、
11. 25/3名、11. 26/2名、11. 27/1名、11. 28/1名、
11. 29/1名、12. 1/3名、12. 2/1名、12. 3/2名、12. 4/1名、
12. 9/1名、12. 10/1名、12. 11/2名、12. 13/1名、12. 16/2名、
12. 17/2名、12. 18/1名、12. 19/1名、12. 22/2名、
12. 23/1名、12. 24/3名、12. 25/1名、12. 29/4名、
12. 30/2名。
一般寄付
9名の方々から計728,957円のご寄付をいただきました。
石田一子追悼寄付(敬称略日付順)
2名の方々から計50,000円のご寄付をいただきました。
建物修繕費用積立寄付
20名の方々から計169,000円のご寄付をいただきました。