「歌を忘れた豪華楽器−各地のホールで泣く−現代パイプオルガン事情」と言う見出しで8段抜きの大きな記事が、先日、朝日新聞に掲載されていました。この十数年、日本各地の公共ホールが競って導入したパイプオルガンが、1台数億円もする高価な楽器であるにも関わらず、ほとんど生かされていないという現状報告です。そして、同じ記事で林佑子さんが、「日本にはオルガン音楽の伝統がありません。だから教会音楽に縛られる必要もないのです。もっと自由な発想でオルガン演奏の領域を広げていけばいい」と語っていました。
林さんは、以前から存じ上げておりバッハの森でもかつてオルガンコンサートを開いていただいた方であるだけに、この発言にはびっくりし、大きな疑問を抱きました。まず林さんはボストンにお住まいのせいか、日本の現状を本当に知っていらっしゃるようには見えません。オルガン音楽を含めて、一般に日本の音楽関係者は、もともと「キリスト教抜き」で音楽をしてきました。「キリスト教抜きのバッハ」というコンサートの広告を見たことがありますし、宗教色が強いことを理由に、コラール編曲をプログラムに入れないで欲しいというホールがあるという話も聞きました。林さんが心配するほど、日本人は「教会音楽に縛られ」ていません。
むしろ問題は、「教会音楽抜きの自由な発想で演奏するオルガン音楽」です。もちろん、バッハも、かの有名な「トッカータとフーガ ニ短調」のような、直接教会音楽と無関係なオルガン曲を作曲しましたし、特に19世紀以降、多数のオルガン音楽が純粋音楽として作曲されてきました。しかし、特にゴシック・ルネッサンス・バロック時代にキリスト教会の中で発達したオルガン音楽はその芸術性から言っても、その膨大な量から言っても、オルガン音楽というジャンルの決定的な土台であることは言うまでもありません。仮にこの宝庫を抜きにしてオルガン音を考えてみると、それは全く貧弱なレパートリーになってしまいます。「教会音楽抜きのオルガン音楽」、これほど不自由な発想はありません。
そもそも西洋音楽は、キリスト教に深く根ざすヨーロッパ文化という大地に咲いた華なのです。いくら美しく咲いていても、切り花は短時日で枯れてしまうように、ヨーロッパ文化という大地に張った根を無視して、音楽という花だけを輸入しても絶対に育ちません。ですから、キリスト教文化の伝統がない日本では、教会音楽は抜きにして、という発想は全く本末転倒の考え方です。音楽を学びたい人は、同時に、キリスト教に根ざすヨーロッパ文化を学ばなければならないという当然のことに、これまで日本の音楽関係者は目をつぶってきました。今度はオルガン音楽関係者も、その仲間入りをしろというのですか。本当に残念なことです。
このような主張を続けてきたため、バッハの森は教会だ、という誤解を創立以来受けてきました。しかし、今度は逆に、西洋音楽を学びたい人はまずクリスチャンになるべきだという意見を私は時代錯誤だと考えます。多分それは明治時代なら通用したでしょう。ドイツですら、バッハがトマス学校で先生をしていた時代とは違います。今や音楽は、世界中で、教会音楽を含めて、教会の枠をはるかに超えた普遍性を持って人々の心に直接訴えかけています。これを、もう一度教会の枠の中に閉じこめることは、誰にもできない相談です。
このような時代に、日本というキリスト教文化とは無縁の世界で、バッハの森は、バロック教会音楽という、香気溢れる心の糧を追究してきました。当然、私たちはキリスト教を文化として学びますが、宗教として信じるかどうかは問いません。1月からは、ミサ曲の「クレドー」をテキストに、合唱メンバーを対象に初級ラテン語クラスが始まりました。名詞の格変化(て・に・を・は)で四苦八苦している段階ですが、クラスの出席者は、歌詞の理解度が違ってきたと言います。この理解度が音楽に反映するまでには、まだ長い道程が必要です。しかし、小さな一歩にも、前進する喜びがあります。このような一歩に新しく参加したい方はいませんか。
公開講座: バッハ「マタイ受難曲」
3月22日は、数日前の春の陽気とはうって変わり、強風が吹きすさぶ寒い一日でした。しかし、バッハの森記念奏楽堂に集まった私たちは、約7時間にわたって、受難物語と受難曲の心に迫る思いと調べを満喫していました。遠く大阪から参加したご夫妻もいて、定員50人の席はほぼ満員でした。当日いただいたアンケートと、後日届いたお手紙から、多数の方々が、この偉大な音楽に特別な思いと思い出を持っていらっしゃることがよく分かりました。その一部をご紹介します。
30年ぶりに戻ったマタイの世界
30年ほど前、私が学生で、受験という仕組みになじめないでいた頃、ちょうど今の季節に、初めてマタイ受難曲を聴き、その精神的な深さに感銘したことを思い出します。大学に入り、会社、家族にエネルギーと関心を奪われて30年の月日が経ちました。今年1月より勤めがつくばとなり、単身赴任の身ですが、地図で見つけたバッハの森が、30年ぶりでマタイの世界に私を連れ戻してくれました。30年前に買ったスコアを段ボール箱から探し出して、今日、持ってきました。ペータースのスコアが1,430円とあります。これにも過ぎ去った時の長さを感じさせられます。
講義は大変興味深く聞かせていただきました。特に時間的関係と地理的関係がよく分かり、とかく象徴的な出来事として、時間空間を全く考慮に入れないで聴いておりましたが、受難物語が「具体的」に見えてくるように感じました。一日、充実した時間を過ごさせていただき、ありがとうございました。(つくば市 庄司敏一)
一体感と臨場感溢れる講座
私はアルヒーフ盤の「マタイ受難曲の」レコードを持っているが、キズものである。25年前、父の急逝にあい、気落ちしていた頃のことであった。妻が、当時まだ幼かった子供らをつれて外出していたある日の午後、一人でこの曲に耳を傾け、終曲が近づく頃、深い感動に震えた。再び同じ箇所のアリアを聴こうとしたところ、誤って針を盤上に落とし、傷めてしまったのである。
去る3月22日、参加なさった皆さんと共に、再び受難曲を通し、この物語に浸ることができ、幸いであった。石田友雄先生の講義とテキストは、時系列別に場面と地理的舞台を示し、日本語訳と並べられた解説があって、この曲が表現する崇高な物語を、目の前で演じられるドラマを見る思いで理解も深くなった。また参加者によるコラールの斉唱と一子先生のオルガン演奏は、一体感と臨場感を一層高めた。何しろ大曲である。時間的制約があることを承知で、さらに斉唱の機会があればと思ったのは欲が深いだろうか。すがすがしい気持ちで帰途についた。(東京都 丸井健太郎)
充実した一日
先日はいろいろとご配慮いただきまして、誠にありがとうございました。特に「マタイ受難曲」の公開講座の聴講に与りましたことを心から感謝しております。30歳代半ばにバッハの「マタイ受難曲」を初めてレコードにより耳にしてから、演奏会に数回行き、またLPやCDにより聴いてまいりました。そして、ヘルムート・リリンクの来日公演の時、NHKより放映されたものをビデオにとり、テロップに流される訳語を見ながら、また時には楽譜を広げて聴きながら、理解を深めようとしてまいりました。しかし、大曲であるばかりか、ドイツ語の歌詞を理解することもままならず、未だにとどまっている状態です。
このたびは、4月1日にバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏が聴けることを楽しみに、この機会に勉強しようと思っているところへ、バッハの森の公開講座の案内を目にし、早速参加させていただいた次第です。私たちにとっては少しハードなスケジュールでしたが、充実した一日を過ごすことができ、自分ではかなり理解を深めることができたと喜んでおります。以前から、バッハの森の活動については興味を持っておりましたが、大阪からは交通の便があまり円滑ではなく、また時間的余裕もなかったことから、お訪ねすることができませんでした。また機会を見つけて、バッハのカンタータなどの勉強もさせていただきたいと思っております。取り急ぎ御礼まで。(枚方市 小川富・勢津子)
長い間の疑問が氷解
一昨日はマタイ受難曲の解説を聞かせていただき、有り難うございました。受難曲は準備の曲であり、目的は「復活」を指し示すにある、という先生の結論に、長い間の疑問が氷解しました。高校生のときに初めてこの曲を聴き、なんと寂しい終わり方なのだろうと感じ、それ以来、疑問のままでした。ところが、先生の御講義で、この曲は全体が次に来る復活の準備のためであることを分からせていただき、感謝であります。4月2日には子供たち2人と家内とともに鈴木雅明氏指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンによる「マタイ受難曲」を、東京オペラシティに聴きに参りますが、先生の御解説が大変役に立つことになりました。当日は先生御作成の資料を持って参ります。一子先生にも宜しくお伝え下さい。お働きの上に主の恩恵ますます豊かならんことをお祈り申し上げます。(あきるの市 高橋照男)
情景をイメージして聴く
マタイ受難曲は、コンサートで何度か聴いたことがあり、自分でも学校でそのコラールを歌ったことがあるので、ある程度解っているつもりでしたが。いつものことながら、石田友雄先生の素晴らしい細部にわたる解説と詳しい資料を手にして、場面ごとに聴かせていただいたので、具体的に各情景をイメージしながら聴くことができ、格別な思いで素晴らしい音楽を味わいました。また、最後のパイプオルガンの生演奏がとても素敵でした。(八王子市 伊藤香子・金子しおん)
和田 純子(カザルス・ホール オルガニスト・イン・レジデンス/バッハの森クワイア指揮者)
6月13日(日)午後3時30分
バッハの森のオルガンは、10年前に、ユルゲン・アーレント氏によって建造されました。アーレント氏は、後期ゴシック時代からルネッサンス、バロック時代の約600年間に、ヨーロッパ各地で建造されたオルガンを修復して、往時の響きを再現した名工として著名な方です。これら古楽器の修復作業を通じて学んだことに基づいて、自分は新しいオルガンを建造していると、私たちにも話して下さいました。彼のオルガン独特の美しい響きは、ヨーロッパの伝統に深く根ざしているのです。具体的には、バッハの森のオルガンは、北ドイツの名工、シュニットガー以来の伝統である、リュックポジティフを持つ17世紀初期のスタイルで建造されました。そこで、このオルガンで演奏するのにもっとも適した音楽は、北ドイツ・バロック楽派のオルガン音楽ということになります。これら、バッハより少し前の時代に活躍した北ドイツのオルガニストたちの作品は、オルガン音楽の伝統が浅い日本ではそれほど知られていませんが、間違いなく、オルガン音楽の一つの頂点であり、これらの作品にバッハは多くのことを学びました。
「ここに最高の楽器と最高の音楽があります。私は、最高のキチンと最高の食材を与えられた調理人のようなものです。皆様に堪能していただけるよう全力を尽くします。」とおっしゃって、和田純子さんは次のようなプログラムを下さいました。
F.トゥンダー: | プレルーディウム ト短調 |
「来たれ、聖霊、主なる神よ」 | |
M.ヴェックマン: | 「ああ、我ら哀れなる罪人」 |
A.ファン・ノールト: | 「詩篇24篇」 |
D.ブクステフーデ: | トッカータ ニ短調 他 |
三位一体祭の音楽
6月27日(日)午後2時30分
三位一体はキリスト教の基本的教義です。伝統的な教会暦は、聖霊降臨祭の次の日曜日を三位一体祭と定め、この日から「教会の半年」を始めました。この公開講座では、ミサ曲の第3曲、「クレドー」によって三位一体の教義を説明し、同時に、J.S.バッハが三位一体祭のために作曲した、カンタータ第129番「主は誉め称えられるべし」を解説とともに、CD/LPで鑑賞します。後半の教会音楽コンサートでは、次の曲が演奏されます。
合唱/G.P.パレストリーナ: | 「ミサ・ブレヴィス」より「クレドー」 |
オルガン/J.S.バッハ: | 「来たれ、創造者なる神、聖霊よ」BWV667 |
「我らみな唯一の神を信ず」BWV680 | |
フーガ変ホ長調(三位一体フーガ)BWV552/2 |