バッハの森通信第65号 1999年10月20日 発行

巻頭言 「セルフ・コントロール」

教会音楽に学ぶ調和の世界

 今年は暑くて長い夏でした。この間にトルコ、ギリシャ、台湾と大地震が続き、アメリカ南部はハリケーン、日本各地は数々の台風と大雨に見舞われ、そのたびに多数の犠牲者が出ました。その極め付きが東海村の臨界事故でした。確かに、明白な人災である臨界事故と地震や台風が引き起こした自然災害は、一応区別しなければならないでしょう。しかし、自然の猛威の前に人間は無力だ、ということを忘れていたために被害が拡大したことは間違いありません。地震では手抜き工事の建物が倒壊し、大雨では川の中州でキャンプをしていた人たちが遭難しました。これは間違いなく人災です。

 自然災害に対する備えを、一昔前は自然をコントロールすると言いました。しかし、とどまることを知らない人口増加によって地球がみるみる狭くなると、ようやく 人間は少々謙虚になり、自然との共存を目指すと言い出しました。同時に、経済生活の枠組みとなって久しい大量生産と大量消費をこのまま続ければ、近い将来、地球上に人間が住めなくなるという危機意識も、一般化してきました。こうしてエコロジーを語ることは流行になりましたが、それにもかかわらず、ダイオキシン汚染、地球温暖化、オゾン層の減少、動植物の稀少種絶滅等々、自然破壊は一向に止まりません。なぜでしょうか。

 これは、人間の方が自分(セルフ)をコントロールなければ、自然と共存することはできないという真理を認めない、わたしたちの生き方に原因があります。実際、現代人はセルフ・コントロールという言葉が嫌いです。現代社会では、「できる限りコントロールしないで自由に生きることが良いことだ」という考え方が支配的です。これに対して、古代人ははるかに謙虚でしたから、洋の東西を問わず、すべての古典宗教が「禁欲」の教えを説き、何らかの「修行」をしました。セルフ・コントロールのない人間社会の危険を認識していたのです。

 「コントロール」という英語は、「ロール」すなわち「転がる」ことに「コントラ」すなわち「対抗する」という意味から出来上がった言葉ですから、元来、この言葉には、何々をしてはいけない、という否定的な意味はありません。放っておけばどこに転がっていってしまうか分からない動きに対抗して、動きに一定の方向付けをすることです。動きはエネルギーによって生じます。従って、問題はエネルギーのコントロールです。例えば、「火」は身近なエネルギーです。火なしでわたしたちの生活は成り立ちません。しかし、それはコントロ−ルした火であって、一旦、コントロールできなくなった火は火事になって危害を及ぼします。同様に、昔から「火」に譬えられてきた人間の本能的欲望は、生命の根元的エネルギーですが、これをコントロールしないと、他人はもとより自分までも破滅させる恐ろしい力になってしまいます。そこで、古来、人間はセルフ・コントロールを 身につける学習をしてきました。

 そのために、古典宗教は大きな役割を果たしてきましたが、明らかに古典宗教が一般性を失った現代社会において、それに代わってセルフ・コントロールを教える一般的な理念や制度を、現代人はまだ発見していません。ところで、現代人がセルフ・コントロールを身につけるための有効な一つの手段として、わたしは、伝統的な教会音楽を考えています。そこには、セルフ・コントロールを教えてきた古典宗教(と言ってもこの場合キリスト教ですが)のエッセンスが籠められていますが、音楽として、教会の枠に縛られることなく、わたしたちはそれを学ぶことができるからです。

 そもそも音楽とは、「思い」というエネルギーを、音楽的に調和するようコントロールして発散する行為です。 ですから、ミサ曲や教会カンタータのような、人間にセルフ・コントロールを教える「思い」を表現する音楽を学ぶなら、他の音楽にまさって、セルフ・コントロールが創り出す美しい調和の世界を味わうことができるはずです。バッハの森でわたしたちは、このような音楽を追求して活動しています。

(石田友雄)

報告

 「今年の秋のシーズンは、2回連続の公開講座「J.S.バハの教会カンタータ」とクリスマス・コンサートを毎月のテーマとする、学習プログラムによって構成されています。

青年詩人の素朴な感激

 9月はカンタータ第93番「愛するみ神の摂理にのみ委ねる者は」をテーマにして、このカンタータを教会音楽研究会と教会音楽セミナーで学び、そのコラール編曲を合唱で歌い、オルガンで練習し、その成果を、10月3日(日)の午後、秋のシーズン最初の公開講座《レクチャー&コンサート》で発表しました。

前半は、このカンタータの歌詞と旋律のもと歌になったコラールを学びました。このコラールを作詞・作曲したゲオルク・ノイマルク(1621-1681)は、バッハと同じように、ドイツ内陸のテューリンゲン地方出身の詩人です。19歳のとき、勉学のためバルト海の港町、ケーニヒスベルクを目指して旅立ちましたが、途中強盗に遭って身ぐるみはがれてしまいました。それでも親切な人の助けを受けてハンブルクにたどり着き、1年間過ごした後キールに行きましたが、そこで思いがけず家庭教師の職が与えられました。大変感激したノイマルクは、どんなに困っていても、必要なときには神様が必ず助けてくださると歌いました。この歌が「愛するみ神の摂理にのみ委ねる者は」というコラールです。彼が20歳のときのことです。その後、彼はケーニヒスベルクで勉学を終えてから故郷に帰り、ワイマールの宮廷詩人になりました。このコラールを収録した詩集を1657年に出版すると、こ 歌はたちまち民衆の愛唱歌になり、バッハの時代を経て今日まで歌い継がれています。青年詩人の素朴な感激が人々の共感を集めたのでしょう。

 このようにコラールの成り立ちとその内容について解説があった後、音楽教室でオルガンを学んでいる3人の人たちが交互にオルガン伴奏をして、全員でコラール全7節を歌って体験的鑑賞をしました。続いてオルガニストが、このコラールに基づくG.ベームとバッハのオルガン編曲(BWV 647)を演奏して前半を終りました。 

射し込む一筋の光を感じたコンサート

 後半は、このコラールとカンタータをテーマにする、教会音楽コンサートでした。創立以来15年間、バッハの森では、バッハが奉仕していた教会の礼拝順序を参考にした「教会音楽コンサート」を開いてきました。このコンサートの特徴は、演奏される音楽が単に教会音楽であるというだけではなく、伝統的なミサ、ないしはドイツ福音主義教会の礼拝がもつ意味のある流れを重視した、コンサートの構成です。一度も出席したことのない方々のために、当日のコンサートを再現してみましょう。

 いつのもとおり、まずハンドベルの点鐘によってコンサートが始まると、テーマ・コラールに基づくバッハのオルガン編曲が2曲(BWV 642, 691)続けて演奏されまし た。詩編103編1-5節の朗読をはさんで、再びオルガンがG.フレスコバルディの「主日のミサの前のトッカータ」を演奏、続いて男声の朗唱とオルガンのアルテルナティム(交互演奏)による「キリエ」と参加者全員の斉唱によるコラール「いと高くいます」(グローリア)。ここまでが序です。

 次に教会暦(三位一体後第5主日)によって定められた聖書朗読箇所を、使徒書と福音書から朗読しました。この朗読により、この特定の日曜日の主題によってカンタータ第93番が作曲されたことが明らかになるからです。この朗読の間に、テーマ・コラールの合唱(BWV 93/7)とそのオルガン編曲(BWV 690)の演奏をはさみ、朗読の後では、テーマ・コラールを参加者全員で斉唱しました。この部分が主題の提示です。

 これだけの準備の後で、いよいよクライマックスとしてカンタータの演奏があるわけですが、通常の公開講座では、残念ながら、カンタータをLPで聴きます。今のところ、カンタータの生演奏は、年に1度、5月の連休中に開くバッハの森フェスティヴァルの教会音楽コンサートに限られています。しかし、たとえLPで聴いても、このような流れの中で聴くカンタータは、わたしたちに多くのことを語りかけてきます。最後にコンサートは、オルガン独奏によるバッハの「ファンタジーとフーガ」 ハ短調(BWV 537)とハンドベルの点鐘で終りました。

 このような筋書きだけでは、このコンサートの参加者が感じた思いを想像していただくことは難しいので、まずバッハの森の教会音楽コンサートに初めて参加してくださった、牛久の伊藤香苗さんの感想:「とても、とても素晴らしかったです。荘厳な深い世界が広がっておりました。合唱を聴いたときは、ただもう感動してしまって、涙がでてきました。それは歌とか合唱というより、響きでありました。黒く深い世界に一筋の光が射し込むような、そんな光を感じる響きでありました。とてもかな世界を垣間見させて頂いた気がします。どうも有り難うございました」。次に合唱を歌っていた、高橋恵君の感想:「オルガン曲最後のフーガが、コラール第7節の〈さらば彼なんじを新たになしたまわん〉を表しているように聞こえて心を打ちました。私は今、ノイマルクがこのコラールを作詞・作曲した年齢です。彼がこの場にいたら何を思っただろうと思いにふけっておりました」

「予告」の文章は活動予定のページに転載しました。
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