バッハの森通信第67号 2000年04月20日 発行

巻頭言 「メモリアル・コンサート」

新しい命の源泉と出会い
明日を生きるために

 バッハの森の創立は1985年、バッハ生誕300年祭の年でした。ただし、創立前の数年間は、どんどんふくらむ夢を実現するため夢中で駆けずり回っていたので、気がついたら創立と300年祭がたまたま重なっていたという、嬉しい偶然でした。

 今年、2000年は、バッハ没後250年を記念する年です。バッハの森ではどのような記念行事をするのか、という問い合わせを時々いただきますが、結局、特別なプログラムは組めませんでした。それでも、今年の5月5日にバッハの森フェスティヴァルで演奏する、カンタータ第106番「神の時はいと良き時なり」(哀悼行事)は、「記念」の音楽として選びました。

   このカンタータは、バッハが22歳のとき、彼の叔父の葬儀のために作曲したと言われています。彼の最初期の作品ですが、人の死を厳粛に受け止め、魂を神の手に委ねることにより、平安と喜びのうちに永眠する幸いを歌います。人間の生と死を考えさせる優れた音楽です。その厳しさと優しさが織りなす深い響きに、誰しも胸が打たれます。

 このカンタータの演奏を中心に、今年のバッハの森フェスティヴァルの教会音楽コンサートは「メモリアル・コンサート」にすることにしました。このような場合、「メモリアル」という英語は、一般に「追悼」と訳されますが、「追悼」では「メモリアル」が意味することを十分に伝えていません。訳すなら、より広義の「記念」の方がいいでしょう。「メモリアル」には、故人の死を悼むだけではなく、故人の生涯を感謝をもって思い起こすという意味があるからです。それにしても、かつて生きそして死んでいった多数の方々のお陰で、今、わたしたちが生きているということは、余りにも明白な事実なのですが、そのことを、普段、わたしたちは忘れて過ごしているのです。

 生物学的な意味で、わたしたちは「生まれた」のでって、自分の意志で生存を始めた人は誰もいません。最近は各自の身体的特徴が、先祖から伝わる遺伝子で説明されるようになったので、わたしたちが「生まれた」存在であることは、科学的に認識されるようになりました。先祖の生涯があって現在のわたしたちがあるということが、厳密に実証されたわけです。

 しかし、わたしたちは単に生物として生まれただけでは、「人間」になれません。各自固有の感じ方、考え方、生き方を決定する「文化」という魂を吹き込まれて、初めて人間になります。この意味で、文化は、わたしたちの命の源泉です。しかも、遺伝子と同じように、世代から世代にわたって受け継がれ、今、わたしたちに伝えられたものなのです。

 遺伝子も文化も受け継いだものだということを強調しましたが、だからと言って、わたしたちには自分の生き方を選択する余地がない、という運命論を語っているわけではありません。同一の遺伝子を受け継いだ兄弟でも、各自固有の身体的発達をするのです。まして、各自の感じ方、考え方、生き方を決定する「文化」は、遺伝子よりはるかに多くの選択肢を持っています。言い換えれば、いつでも、新しい出会いがあれば新しい生き方が始まる可能性があるのです。「メモリアル」の目的は、受け継いだ、と言うことは、先人から「ただで」もらった「文化」の偉大さに触れ、そこに新しい命の源泉を探し求めることではないでしょうか。もちろん、わたしたちに与えられる明日を、新しい命で生きるためです。

 バッハの森の最も主要な建物は、「バッハの森記念奏楽堂」と呼ばれています。13年前、『バッハの森通信』第15号(1987年4月)の巻頭言で、わたしは「記念奏楽堂」と命名した理由を説明し、考えてみると、わたしたちの現在は、故人になった方々から「ただで」もらったものばかりで成り立っている。「記念」とは、そのことに感謝する思いだ。さあ、バッハの森に「記念する心を集めよう」と呼びかけました。  同様に、今度のメモリアル・コンサートに、「記念」する心が集まることを願っております。あなたも、あなたの「記念」を持ち寄ってください。そこで、新しい命の源泉と出会い、新たな思いで明日を生きるために。

(石田友雄)

報告

 学習コミュニティー「バッハの森」に集う人々の輪は、 徐々に大きくなっています。ここに、最近半年間に参加 した新メンバーの中から3名の方々に、バッハの森の体 験的報告をしていただきます。 

学ぶことの醍醐味
 バッハの森に通い始めてほぼ半年、今は大学が春休みということもあり、オルガンとハンドベルのレッスン、合唱練習に加えて、いろいろな研究会にもできる限り出席させていただき、気づけばすっかりバッハの森に「はまって」おります。
 当初はただ合唱をやりたく、教会音楽という言葉に興味を覚えてバッハの森を訪ねました。と言っても、それまで教会音楽について何か知識があったわけではなく、聖書には触れたことすらありませんでした。西洋史の知識も怪しくて、「キリスト教がローマ帝国の国教になったのはいつのことですか?」と研究会でただされると、「えーと、紀元前...」などと、とんでもないことを口走ってしまうほどでしたが、この春休みは、ほとんど毎日 通いながら、学ぶということがこんなに面白いことかと、驚きと嬉しさを伴って感じています。
 学ぶことの醍醐味を唸るほど感じたのは、先日開かれた公開講座で「メサイア」を聴いたときです。それまで全くなじみのなかった音楽が、友雄先生の解説とともに聴いているうちに、ただ「きれい」とか「迫力がある」というような漠然とした印象から、音の一つ一つ、歌詞の一語一語に意味がある、「絵」のある「生きた音楽」になって、自分の中に入ってきたのです。
 この時、実感したことは、何世紀にもわたって人々に親しまれてきた優れた音楽には、それが作曲された時代まで連綿と受け継がれた文化や価値観が、その中に凝縮されているということでした。だから、このような音楽の背景になっている文化や価値観を学ぶことが、その音楽の理解を助けるだけではなく、その音楽の持つ豊かさを感じ、感動をより深いものにする世界の扉を開くのだということです。「ヨーロッパ文化を学ばずに西洋音楽 はできない」という、『バッハの森通信』去年4月号の巻頭言が、ストンと心に収まる思いがしました。
 音楽の奥に広がる世界をもっと学び、音楽の素晴らしさをより深く感じたい。知らないことがたくさんあり、知りたいことがたくさんある。ということをわたしに教え、このような願いをかなえてくれる場所、それがバッハの森です。ですから、今やバッハの森は、わたしの心の中心を占領する大きな存在になっているばかりではな く、これまで当たり前のことだった明日という日が来ること、未来がわたしにはあるという喜びを、沸き立つような思いで教えてくれる所でもあるのです。
(牛久市 伊藤香苗)

「言葉」の大切さを痛感
 私がバッハの森に出会ったのは、ほんの3ヶ月程前のクリスマス・シーズンの時です。結婚してつくば市に来て、右も左もわからないうちだったのですが、私が一番好きな作曲家のバッハという名前がついていること、財団法人と何だか普通の合唱団とは違っていること、子供のためのコンサートをのぞいて見ると、受胎告知について分かり易い説明がされていたこと、とても立派なパイプオルガンがあったこと、すべてが驚きであり魅力でし た。これまでも歌うことが大好きで、以前は合唱やオペラのアリアなどを歌ってきましたが、最近は、もっぱらグレゴリオ聖歌やバロック音楽ばかりを好んで聴き、歌とは祈りだと感じていた私にとって、まさにバッハの森は最適な学びの場だったのです。
 最初はクワイアだけ参加しようと思っていましたが、研究会も面白そうだと思い、出席することにしました。しかし、旧約聖書と新約聖書の区別もつかないような状態で臨んだ私には、友雄先生のお話をメモすることで精一杯。頭が爆発しそう(!)だったのですが、とても詳しい説明と、毎回、前回の内容をていねいに復習してくださるおかげで、頭の中も整理され、(旧約聖書をまとめた)古代イスラエルの人々の気持ちを推察したり、キリスト教徒が聖書の言葉をどれほど大切に思ってその思いを(音楽として)表現してきたかということが、少しづつわかるようになってきました。
 これまでの私は、歌う時、メロディーやハーモニーや発声の善し悪しばかり気にしていましたが、バッハの森に来て、「言葉」を理解し、「言葉」の背後に隠されている背景や想いをいかに表現するかがとても大切なのだということを痛感するようになりました。また「言葉」を深く考察することによって、音楽から受ける印象がまるで違ってくることも実感しました。まさに「初めに言葉があった」のです。このように、音楽をこれまでとは違う側面から見るよう、私の視野を広げてくれる場が、バッハの森にはあります。
(つくば市 小木曽代里子)

学ぶ楽しさ満喫
 学校での勉強が実に楽しかったという人は少ないに違いない。しかし、もう少し若いうちに勉強しておけばよかったと思っている人は大勢いるに違いない。ぼくもご多分にもれずその大勢のうちの一人である。
 「ああ、勉強しておけばよかった」の筆頭が、ぼくの場合、聖書である。ぼくは俗の俗たる人間なので、心を清く正しくしようとして聖書と取り組もうと思ったことはない。ただ、欧米の文化とお付き合いする以上、聖書を読まなければ理解の上でどうにもならないと感じていた。そして、「いつかいつか」と思いながらなんと定年まできてしまった。
 欧米の文化といってもいろいろある。横文字もほんのちょっぴりかじったし、いくらかあちら様の小説も読んだ。そして数々の音楽を聴いた。ベートーヴェンが好きになった。ブラームスに夢中になった。モーツアルトを美しいと思った。やがてというか、ようやくというか、バッハを聴くと心洗われる思いがするようになった。なぜだろう、なぜだろう。心洗われる源泉をたどりたくなった。
 ふとした出会いがあった(長くなるのでその経緯は省略)。昨年秋からぼくは「バッハの森」のいくつかあるセミナーのうち、「教会音楽セミナー」に週1回通うようになった。
 この春はヘンデルの「メサイア」を講読した。歌詞を原文(この場合英文)で一字一句厳密にたどり、その意味を探っていく。それはまた聖書講読でもあり、ユダヤ史をたどる道でもある。「イザヤ書の第40章」などと言われても、どこだどこだと聖書のページをいたずらにさ迷うぼくであったが、いつのまにか石田先生の講義に引き込まれていった。学ぶということがこんなにも楽しく思えたことはない。特に「メサイア」では言葉と音(符)の厳密な関係に、改めて西洋音楽の奥の深さを思った。むずかしいと思っていた聖書の世界やユダヤ史も石田先生の名講義で含蓄ある楽しい物語となる。
 次回からは、バッハのカンタータ第106番「神の時はいと良き時なり」の講読となるが、毎週楽しみに通うことになるだろう。何十年も前にちょっぴりかじったドイツ語、ラテン語だが、それでもゼロよりは役に立つだろう。語学の再学習も老化防止と思えば苦にもなるまい。「バッハの森」は、ぼくにとって、「知識が力」となるだけではなく、「知識が喜び」となることのできる場かもしれない、とぼくはいま感じはじめている。
(茨城県藤代町 太田耕平)



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