ことのほか暑い夏でした。その上、ヨーロッパでも中国でも大洪水が起こり、ついに地球は壊れてしまったのかとぼやいているうちに、ちゃんと秋は来ました。毎年
経験する気候の変化なのに、やはり不思議です。
バッハの森では、9月の第2週から「秋のシーズン」が始まりました。主なプログラムに変更はありませんが、活動内容がより充実してきた手応えを感じます。研究会、セミナー、合唱とハンドベルの練習、オルガンと声楽の教室が開かれ、それに、これらのプログラムに共通するテーマを、毎週土曜日午後6時から「教養音楽鑑賞シリーズ・J.S.バッハの宗教音楽」で学びます。
これは、バッハの教会カンタータを毎週1曲学ぶ集いで、この秋から第3年目が始まりました。バッハが生涯作曲した教会カンタータは約250曲と考えられています。日曜日と、クリスマスや復活祭などの祭日のための音楽で、音楽が禁じられた日曜日もあるので、1年分約50曲、全部で5年分にあたります。残念ながらその中、約50曲が失われ、現在、約200曲が残っています。
バッハの森には年末年始の休館と夏休みがあるので、毎週と言っても、2年間でようやく50曲ほど学びました。残りの150曲を学び終わるには、この調子で続けて、少なくともあと6年はかかる計算です。
バッハの森の活動のエッセンスを、少人数の参加者と3日間で学ぶ初めての試みでした。しかも、参加希望者が1人いたので急遽開催を決定しました。結局、全プロ
グラムの参加者は5名、他に部分参加者は9名という、"理想的"な少人数のワークショップになり、密度の高い学習をすることができました。全プログラムに参加した3人の方々に報告していただきました。
刺激に満ちた学習の醍醐味
去年、夫の転勤のため名古屋に転居してから、隔週、時には毎週、バッハの森のプログラムに参加するため、バッハの森のゲストハウスに2泊、時には3泊させていただく生活を1年間続けてきました。このように、名古屋からバッハの森に定期的に通って来ているのですが、バッハの森に来るたびに、いつも知的興味が刺激され、興奮してぐっすり眠れたためしがありません。今回の夏期ワークショップも例外ではなく、いえ、普段以上に高揚して、やっぱり眠れませんでした。そこで「ここはそういう所」と居直り、目の下にくまを作りながら、眠れぬ興奮を楽しみました。
今回のワークショップでは、まず"Gloria"とそれに基づくコラール"Allein Gott in der Hoh sei Ehr"の歌詞を比較し、作詞家ニコラウス・デチウスが、ラテン語の「グローリア」をどのように解釈し、どのようにドイツ語に訳したかを説明していただきました。ここから、キリスト教徒が考えた「平和」のイメージを知り、さらには、今年初めの『バッハの森通信』第74号の巻頭言で、 友雄先生が書かれた「平和を願う歌」の内容に思い至りました。「グローリア」は、「地に平和があるように」という願いを自分たちの力では達成できないことを悟り、人間を超越した存在の栄光、すなわち神の支配に委ねることが地上に平和を実現する唯一の道だと考えた人々の思いの表現だ、というのです。これまで繰り返し学び、歌ってきたコラールを、今回、再び新しい視座から見直す感動がありました。
このコラールの旋律による、詩篇23篇に基づく2曲のコラールがありますが、バッハはこれらのコラールを用いて、復活祭後第2の主日「ミゼリコルディアス・ドミニ(主の憐れみ)」のためのカンタータを2曲作曲しました。BWV 104 と112 です。この2曲のカンタータの音楽的表現の解釈を、この主日の福音書、詩篇23篇、宗教画などを参照しながら学びました。今回もこれらの素材が複雑に絡み合う相互関係を整理し解きほぐして理解する、バッハの森独特の学びの醍醐味を味わいました。これは、聖書が、長い歴史を通して人々にインスピレーションを与え、解釈され、カンタータへと発展していった過程を伺い知る面白さです。
もちろん、毎日、音楽をしました。テーマのコラールを全員で斉唱しただけではなく、パートを交替しては4声でも歌って楽しみました。また、このコラールのオルガン編曲である、スウェーリンクとバッハの課題曲による公開レッスンがありました。 そして、学習の成果をふまえた受講者コンサートが最終日に開かれました。学び得たことを咀嚼し、反芻しながら、現在に生きる自分はどう考え、どう表現すべきかを考える第一歩になったと思います。このワークショップは、バッハの森の普段の活動が濃密に凝縮された3日間でした。
私がバッハの森に通い始めてから早くも10 年たちましたが、夏休み中にバッハの森に来たのは初めてでした。そして、10 年という節目に機が熟したとも言えますが、それ以上に今回のワークショップを開くきっかけを作ってくださった荒野さんに刺激を受け、これまで声楽で関わってきた私が、遂にオルガンを弾こうと思い立ったのです。今までもオルガンに興味がなかったわけではありません。しかし、今回の公開レッスンで、「ピアニストの荒野さん」のオルガン演奏が、一子先生の一言一言で一瞬のうちに「オルガニストの荒野さん」の演奏へと変化していくのを聴いているうちに、オルガンに対する私の興味が一気に高まり、3日目にはとうとう自分も弾いてみようという思いにまで達しました。「難しいものに手を出してしまった」と考えましたが、前号の『バッハの森通信』の巻頭言、「狭き門より入ろう」を思い出し、じっくりと「楽しさ」を探し求める「険しい道」を歩み続けることにしました。
(名古屋市 比留間恵)
オルガン音楽と精神的な人々との出会い
今年の3月に、全く幸運な偶然から、バッハの森を初めて訪れました。それから、月に1度の教会音楽研究会に、そして今年の夏期ワークショップに参加し、バッハの森では多分一番後に参加した新人として、勉強させていただいています。
さて、夏期ワークショップでは、初めてオルガンに触れました。ピアノで課題曲を練習しているときには、オルガンではこのように鳴るのでは........と、想像しながら練習していましたが、実際のオルガンは、私が思っていたものとは全く違う楽器でした。
楽器の機能上、タッチによる強弱ができないということを、自分で弾いてみて初めて知り、ピアノの前身の楽器がピアノフォルテと呼ばれていた訳を骨身にしみて知りました。
また、普段、ピアノで表現するときに、いかに強弱と声部のバランスによっていたかということを意識し、子供の頃から当たり前のように使ってきた技術が、オルガンという楽器においては役に立たない....ということが分かり、ではオルガンにおける表現とは何なのか、と言う 問題で非常に悩みました。
一子先生からアドヴァイスをいただき、またオルガンの音を聴き、オルガンならではの技法が少しずつ分かってくるに従い、普通、ピアノで弾くバッハのスタイルというものが、オルガンの特徴と技法をピアノに写し取ったものであることに気づき、大変興味深く思いました。一生のうちに、自分でオルガンを弾くことがあるとは思いもよらず、短い時間でしたが、大変良い勉強になりました。
またワークショップのテーマは、コラール: "Allein Gott in der Hoh sei Ehr"で、この同一テーマによる色々な曲について学びました。このコラールの原詩であるラテン語の“Gloria”からドイツ語へと、一つ一つの言葉の意味や背景を考えならが、意味の変遷や、そこから作曲者が、どのようなイメージを抱いたか、少しずつ解き明かされていく過程が、大変興味深いものでした。
バッハは純音楽としても大変面白いものですが、背景から解き明かしていくことにより、曲のテンポの設定や音色の選び方が自分の中ではっきり固まっていくことが面白く、いつもは時間をかけて弾き込んでいくことによってイメージを築いていくのに対して、曲の意味からのアプローチというのは、とても新鮮で刺激的でした。
さて、最後に、私は音楽とともに精神的なものに深く惹かれるところがありますが、東京の書店で、私の興味のある本棚の前で誰かと一緒になることはまず滅多にありません。それが、つくばの地で、こんなに多くの、同じようなことに興味を持つ方々にお会いして、大変驚いています。ラテン語もドイツ語も全く駄目な新人ですが、少しずつ勉強を続けていきたいと思っています。やっとみつけた「狭き門」を見失わないように......。
(調布市 荒野洋子)
バッハを通して出会う人々の心
夏真っ盛りの7月中旬、突如として企画された夏期ワークショップに参加させていただいた。ワークショップのテーマは、復活祭後第2主日のために作曲されたバッハの2つのカンタータと、そこで歌われるコラールの旋律: "Allein Gott in der Hoh sei Ehr"のオルガン編曲だ。これらの音楽で、バッハが何を表現しようとしたのかを探求する多様なプログラムが、ぎゅっとつまった3日間だった。
まずはテキストの精読から始まった。カンタータでは、そこに用いられているコラールが作られた土壌である宗教改革の精神に触れ、さらにその歌詞の土台をなす詩編に遡って、旧約聖書以来、天国を「牧場」として描くことを知った。またカンタータの歌詞の内容を、教会音楽の大枠である教会暦との関連でも考察した。コラールのオルガン編曲を学ぶにあたっては、まず4世紀以来の伝統を持つミサ通常文中の「グローリア」が、どのように解釈されてプロテスタントの礼拝用のコラールに改作されたかを、神と人、この世と天国を対比するキリスト教の考え方にまで及んで詳しく見た。
このようなテキストの学習と平行して、音楽のプログラムがあった。カンタータの鑑賞では、コラールをみなで歌ってみるだけではなく、二重唱や合唱を楽しんだ。また、テーマのオルガン編曲を課題とするオルガンの個人レッスンを聴講することもできた。そこでは、ピアニストである受講生の荒野さんの演奏が、友雄先生の解説と一子先生のアドヴァイスを受けてみるみる変わってい く様子が圧巻であった。「学びながら作り上げていく音楽」の過程を垣間見た気がした。
この3日間の学びを通してつくづく感じたのは、何百年、何千年にもわたって聖書が生み出してきた文化的創造の脈々と続く大河のような流れである。そしてそのいくつもの大きな流れを結集して、聖書の文字を音楽芸術に昇華したバッハの作品の奥深さである。
今、振り返りながら思うことは、バッハの音楽は、学び尽くすことができない大海のような音楽だということだ。この大海に脈々と流れ込んでいる、いくつもの流れをたぐり寄せ、ひもとく学びを通して、かれの音楽が何を表現しているのかを理解する過程は、この音楽の中に、生きた人々の姿を見出していく過程でもある。そこに人間としての共感が生まれると、この音楽はよりいきいきと真に迫ったものに変わっていく。
私は、「神」と言われても、何を意味するのか考え込んでしまう、普通の日本人である。それでも、カンタータのアリアが、姿の見えない神を探し求めて彷徨う者を描くときに、伸ばした手が空を虚しくつかむ、かれの細い腕が見える。同様に"Allein Gott in der Hoh sei Ehr"のオルガン編曲を聴くと、天の存在を確かに感じていた人々の目の輝きと、沸き立つ心を目の当たりにする。さらに自分でこのコラールを歌ってみると、大きな存在に包まれるような喜びを感じることができる。
バッハの音楽を学ぶことは、その音楽を通して聖書の文化に生きていた人々の心に出会 っていく、底の見えない面白さがあるのだと、夏期ワークショップを 振り返りながらつくづ くと思う。
(牛久市 伊藤香苗)
石田友雄先生、一子先生
ベルギーは朝夕、すっかり冷え込むようになりました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか。長らくの御無沙汰、申し訳ありませんでした。
2年のはずの留学生活だったのですが、さらに2年ほどこちらで研究を続けることにいたしました。場合によりましては3年になるかもしれません。こちらで博士論文を書くとに挑戦することにしましたので。
来月、ブルュッセルで開かれるゴセックの学界で発表させていただくことになっていますが、フランス語での発表、今から不安で一杯です。
ルソン・ド・テネーブルとの関連で、エレミヤ哀歌については大変お世話になりました。昨年、「札幌古楽の夏音楽祭」のプログラムにルソン・ド・テネーブルの解説を書かせていただきました。まだまだ力不足で先生方にお見せできるものではないのですが、目を通していただけました
ら幸いです。
お体にはくれぐれもお気を付けください。こちらでは、バッハの森にいたようなネコちゃんに会えないので、それだけが唯一の不満です。
9月22日、リエージュ
ケルンはここ最近、雨ばかりで寒い日が続いています。朝なんて、真冬かと思うほど寒いです。テレビで「世界の天気予報」を見ると、何と東京は20度!羨ましいかぎりです。
昨日、今日ととても嬉しいことがありました。一つ目は、大原佳代さんのご紹介で、ケルンのショッピング街にあるアントニターというプロテスタント教会のクワイアに入り、早速練習に行ってきました。今週の礼拝のためのいくつかのコラールとクリスマスに向けて、M. レーガーの曲を練習しました。指揮者のクヴァックさんは、指導が分かり易く丁寧で、クワイアもとても良い感じでした。二つ目は、今日、ようやくハンブルクに行って、ヤンに会ってきました。今後の課題をいただき、オルガンのレッスンをシュヴェリンでしていただくことにしました。かなり大変です。私にできるでしょうか。
それではまた。
10月2日、ケルン