*バッハの森通信第82号(2004年1月20日発行)

巻頭言

バッハの森の不思議

一緒に感動できる仲間がいる驚き

 新しい年を、皆さんは、どんな思いでお迎えになりましたか。戦争と破壊の世紀だった20世紀に別れを告げ、21世紀に希望を託して、新ミレニアム(三千年紀)を始めたのは、つい3年前のことでした。しかし、残念ながら、戦争と破壊は相変わらず続き、それどころか、この3年で、もっとひどくなりました。

 確実に悪くなっていく世界の状況に、地球の一市民として心が痛みます。しかし、正直なところ、一体どうしたらいいのか、戸惑うばかりです。一市民ができることと言えば、多分、平和を願うささやかな思いを、忍耐強く集めていくことでしょうか.......。

 それと同時に、世の中の暗いニュースを聞くたびに、自分が、去年一年、戦争、テロ、新型感染症、大地震、様々の災害や凶悪事件に、直接巻き込まれなかったことを、大変「有り難い」ことだ、という思いが強くなりました。普段、何気なく使っている「有り難う」という言葉の元の意味は、言うまでもなく、「有ることが難しい」、「滅多にない」ということ。要するに、「当たり前ではない」ということです。

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 実は、バッハの森の活動を通して、この「当たり前ではない」という思いを、私はしばしば経験してきました。「不思議」とか「驚き」と言い換えてもいいでしょう。 不思議、その1。バッハの森は、今年、19年目の活動を開始しましたが、これほど収入のない団体が、よくぞ19年も続いてきたものです。バッハの森の大枠である財団法人を維持し、多数の会員の出入りと活発な活動を組織するためには、相当量の事務をこなす必要があります。しかし、そのための人件費は零です。結局、何人ものヴォランティアが入れ替わり立ち替わり、献身的に事務処理をしてきてくださいました。「驚き」です。

 不思議、その2。現在、バッハの森に週1回以上、合唱、ハンドベル、オルガン、声楽などの練習やレッスンに参加したり、いろいろな研究会に出席するアクティヴ・メンバーが約30人います。他方、バッハの森には滅多に来られない、中には、一度も来たことがない、はるか遠い地方に住む会員が約200人もいて、年会費を払い、しばしば寄付までして、応援していてくださいます。

 この現象を、私は本当に「不思議」だと思っています。バッハの森は学校ではありませんから、何の免状も単位も出しません。世間の常識から見ると「役に立たない」ことをしているわけです。しかも、バロック時代の教会音楽という、知的にも音楽的にも、非常に難しいテーマと取り組んでいます。このテーマで、素養のレベルがいろいろなメンバーと、一緒に音楽したり研究会を開いたりするために、参加者は全員、相当努力しなければなりませんし、それはしばしば「難行苦行」になります。それでも熱心に集まり続けているから「驚き」なのです。

 もっと「不思議」なのは、一度も来る機会がなくても、長年にわたって応援してくださる「地方会員」の皆さんがいることです。この方々とは、不思議なことに、お目に掛からなくても、心が通じているのです。先月のクリスマスには、長野からりんご、鹿児島から魚の薫製で、参加してくださった方々もいました。

 不思議、その3。例年、クリスマス祝会は、手作りのご馳走の持ち寄りと、持ち寄りの音楽や、時には隠し芸で楽しみます。今回も大いに盛り上がった後で、最後にパウル・ゲルハルト作詞、ヨーハン・ゼバスチャン・バッハ作曲のクリスマス・コラール「まぶねのみ側に」を皆んなで歌ってお開きになりました。オルガン伴奏で、終わりの方にはトランペットも参加して、全9節を歌いましたが、歌い続けているうちに、感極まって涙を流す人たちが現れました。バッハの森に、一緒に感動できる仲間が集まっていること、私には、これ以上の「驚き」はありません。

 今年はさらにグレイド・アップした「不思議」「驚き」「当たり前ではないこと」「有り難いこと」が、バッハの森で起こりそうな気配にわくわくしています。わたしたちの「不思議」な活動に共感してくださる方々のご参加を、心からお待ちしております。(石田友雄)

REPORT/リポート/報告

2003年
バッハの森のクリスマス

メディタツィオ(2003.12.14)
世界で一番大切なもの

 世界で一番大切なものは何でしょうか? それは、みんな誰でも持っているもの、全世界にたった一つしかない自分の命です。

 命とは、生まれたときから、厳密に言えば生まれる前から、私たち一人一人に与えられている、生きようとする不思議な力です。生きることは、権利でも義務でもありません。自分が人間として存在しているという、当たり前のことです。しかし、この当たり前のことは、決して簡単なことではないのです。

 それが、いかに簡単なことではないかを示す、病気、事故、災害など、命の危険に関わる極限状況がいろいろとありますが、今、世界中を震撼させているテロ、特に自爆テロは、いつどこでも遭遇する危険性がある、非常に特殊な極限状況です。今、私たちは皆、テロを武器に体制に挑戦する人々と、体制を維持し、既得権を守ろうとする国々の間の、世界を舞台にした戦争に巻き込まれています。

 片や、殉教の死を遂げれば、天国で永遠に生きることができる、と信じて自爆テロを実行する人々がいます。痛ましい思い違いですが、彼らにしてみれば、これが自分の命を生かす唯一の方法だと思いこんでいる、いや、思いこまされているのです。他方、自分たちの命を守るために、テロとの戦いを正義の戦争だと主張して、世界各地に軍隊を送り込み、殺戮と憎悪の悪循環を増幅している人々がいます。困ったことに、両方とも、自分たちが生きるために当然のことをしているのだ、と考えているのです。

 しかし、たった一つの命を持つ自分と同じように、相手もまた、たった一つしか命を持たない人間なのです。そこで、考えてしまいます。自分の命を生かすためには、他人のたった一つの命を犠牲にしてもいいのでしょうか。それとも、他人の命を犠牲にしなければ、自分の命を守ることはできないのでしょうか。幸い、私たちは、極限状況からほど遠い、平和な日常生活を送っていますから、普段、このような設問を考えることもありません。しかしこれは誰か暇な人が考えればいい設問なのでしょうか。

 いいえ、私たちは、今、これまで人類が経験したことのない、新しい型の戦争に巻き込まれているのです。しかも、歴史を学ぶと、自分が生きるために他人の命を犠牲にする行為、すなわち、戦争がいつでもあったことを知ります。一体、どうしたら、人間の世界から戦争をなくすことができるのでしょうか。これは、歴史を通じて、人間が問い続けてきたけれど、未だに解答がみつからない問いなのです。

この世に属さない国

 さて、2000年前のユダヤでは、ローマ人の支配体制に反抗するユダヤ人の過激派が、活発な破壊活動を繰り返していました。その過激派の一人だと讒(ざん)言されて、ナザレのイエスは逮捕され、ローマ総督、ピラトの尋問を受けました。ピラトが「お前はユダヤ人の王なのか」、すなわち、「ローマに抵抗するユダヤ人の支配者なのか」と質問すると、イエスは「私の国はこの世に属していない」と答えました。このイエスの言葉を、ピラトは理解することができませんでした。結局、イエスは「ユダヤ人の王」という罪状で十字架にかけられ、ユダヤ人過激派の人々と一緒に処刑されました。そのとき、ユダヤ人はもとより、彼の弟子まで彼を見捨て、彼自身は、神に見放された、と叫んだと伝えられています。

 それにもかかわらず、「私の国はこの世に属していない」という彼の言葉を思い出し、一旦、逃げた弟子たちが再び集まりました。その後、彼らは、イエスをキリスト、すなわち、メシアと呼ぶ集団になります。この場合、メシアとは、「この世に属さない国」の王、という意味です。

 やがて、彼らの間では、イエスに関する伝承が語りつがれるようになります。中でも、イエスの誕生にまつわる伝承は、深い意味を持つ、美しい物語になりました。このメシア降誕の物語によると、彼がベツレヘムの馬小屋で生まれたとき、羊飼いに現れた天の大軍が、次のような讃美の歌を歌いました。

いと高いところにいます神に栄光あれ。
そして地には平和があるように。

 この場合、神とは、この世に属さない天の国の王のことです。天の王が栄光を受ければ、すなわち、天の国の王の支配を私たちが受け入れれば、初めて地上に平和がくる、という意味です。

 それ以来、イェスの生き方と死に方を忘れることができない多くの人々が、「この世に属さない国」を探し求めて、彼の誕生をお祝いしてきました。世界で一番大切な、全世界にたった一つしかない自分の命を守るためには、他人のたった一つしかない命を犠牲にするのではなく、かえって守ることなのだ、という秘密を知るために。

 今日、ここで彼の誕生を記念する私たちも、天の大軍と一緒に歌いませんか。

Gloria in excelsis Deo
et in terra pax hominibus bonae voluntatis.

                      (石田友雄・バッハの森代表)

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「闇を照らす光」を求める感動

 毎週土曜日、バッハの森で教会暦に沿って、J. S. バッハのカンタータを聴き始めて約3年。無意識だったことを意識し始め、時に納得し、時に疑問を持ちながら、季節感と共に、私は思索の醍醐味をここで教わった。去年もカンタータを聴きながら、秋の深まりと共に想いを深めて行き、アドヴェント直前には、新しい年を迎える期待感でだんだんと心が躍り始めるのを感じていた。

 そんな日々、冬至に向かって早くなる日没にせかされるように、バッハの森でも着々とクリスマスを迎える準備がなされ、いろいろな人たちの想いと共に、「バッハの森のクリスマス・コンサート」、朗読と音楽とスライドで綴る「クリスマス物語」、そして祝会を迎えることができた。

 バッハの森の「クリスマス・コンサート」を経験するたびに、私はその「プログラム」に心を打たれてしまう。毎回、そこに、歴史の中で積み重ねられ、磨かれてきた力を感じるからである。鐘の音で始まり、鐘の音で終わる、このコンサートの間に、遙か昔から流れ続けてきた時間や先人たちの想いを、自分たちが受け止め、「メディタツィオ」を通して、また先へと歩んで行こうとする「プログラム」が流れているのだ。  

 「メディタツィオ」は、いつもゲネプロでも聞かされることはなく、コンサートで初めて聞くことになるのだが、それ以前にも様々なことを意識して演奏してきたつもりなのに、それを聞いた瞬間にさらに多くのことに気づかされるのは驚くべきことだ。そして、「メディタツィオ」がもたらした新たな想いと共にコンサートは続く。今回はここで、コラール「高きみ空より我ここに来たる」(Vom Himmel hoch da komm ich her)全15節を、J. S.バッハがこのコラールをオルガンのための5曲のカノンで表現した変奏曲と共に、心の底から感動して歌った。暗い季節に歌うこの音楽が象徴する「闇を照らす光」が、どの時代にも諦められることなく、今に至るまで人々に求められ続けている普遍的なテーマであることを、2003年のクリスマスには特に強く感じた。

 ここ数年、バッハの森では、朗読の大切さが繰り返し強調されてきた。「クリスマス物語」でもスライドと共に朗読した。「読書百編、義自ずから見(あらわ)る」。歌詞を何回も読むことで意味を十分に理解し、音読をきちんと身につけることが、音楽造りに不可欠だということである。しかし、つい音取りに夢中になり、技術的な方向へ傾きがちだ。そういう時に「本質的なこと」へ修正するためにも、歌詞の音読は必要なことである。もう何度も注意されて、耳にタコができた、と言いたいところだが、では今回のクリスマス・コンサートで十分なレベルまで到達できていたかと言うと、いやいや。反省している。これを2004年の私のテーマにしたい。「言葉の音楽」を演奏するにあたり、本質的なことを本当に理解しているか、自分に問う一年になりそうだ。(一生かも知れない)。

 こうしてバッハの森のクリスマスを振り返ると、歴史と言葉と想いが積み重ねられた音楽が、いかに深遠であるか、思わず空を見上げてしまう。目で見える部分はまだ僅かであるが、望遠鏡で覗くときのようにわくわくしながら、いろいろな発見をこれからもしていきたいと思う。そのためには、知識の感度を良くする努力をしなければ、と考えている。
        (比留間恵・バッハの森クワイア指揮者)

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悲しみを溶かした音楽

 バッハの森の皆様
 毎日、良いお天気が続き、冬の空気の澄んだ美しさを感じながら、皆様には健やかに新しい年をお迎えのことと存じます。

 先日は、「クリスマス物語」と「クリスマス祝会」に参加させていただき、本当に有り難うございました。バッハの森に足を運ぶのも初めての私を、まるで昔からの仲間のように親しく迎えてくださって、感激いたしました。

 思えば、初めてバッハの森のホームページを拝見してから早くも3年余りの年月がたとうとしております。その間、何度もお訪ねしたいと思いながら、ここまで延ばし延ばしにしてしまっていたことを、今となっては残念に思い返しているところです。

 クリスマス祝会の最後に、皆様と一緒にコラールを歌わせていただいた時のことです。私にとって音楽や歌は、幼い頃から親しいものでしたが、とりわけバッハやルネサンス・バロック期の音楽には、心の奥が引き寄せられるような想いを抱いてきました。しかし、せわしない日常の中、そのような想いや音楽の造り出す美しい世界を忘れ、常に自分自身のことや目に見える現実にばかり囚われていたことに気付き、涙が止まりませんでした。日々の悩みや悲しみが、音楽に溶けていくかのようでした。

祝福をこの身に感じることができた、素敵なクリスマスになりました。

 さて、今月からは、クワイアにも参加させていだだくことになりました。歌うことが大好きな私は、今から張り切っております。たくさん勉強し、充実した時を重ねられたらと思います。皆様、どうぞよろしくお願いいたします。(茨城県協和町 岩淵倫子)

日 誌(2003.10.12 - 2004.1.7)

11.7 運営委員会 参加者6名。
11.9 オルガン& トーク・コンサート
和田純子(オルガニスト)、トーカー(石田友雄)。参加者32名。
12.4 放送 茨城放送「スイングです」の生放送で、オルガン、独唱、解説により、バッハの森のクリスマスを紹介。放送局2名、バッハの森3名。
12.5  運営委員会 参加者6名。
12.14 クリスマス・コンサート 参加者49名。
12.20 クリスマス物語 参加者59名(子供11名)。
クリスマス祝会 参加者34名(子供5名)。
12.22 工事 奏楽堂屋根葺き替え、塗装開始
12.26 大掃除  参加者5名。
12.27 窓拭き  参加者8名。
12.28 - 2004.1.7 冬期休館

教養音楽鑑賞シリーズ
「J. S. バッハの宗教音楽」

10.18 第93回(三位一体後第11主日)、カンタータ 「主イェス・キリスト、汝、いと高き宝よ」(BWV  113);オルガン:D. ブクステフーデ「同上」(BuxWV 193)、 J. G. ヴァルター「同上」。参加者:12 名。

10.25 第94回(三位一体後第15主日)、カンタータ 「全地において神に歓呼の声をあげよ」(BWV 51) ; オルガン:D. ブクステフーデ「わが魂よ、いざ主を誉め称えよ」(BuxWV 213/2);ハンドベ ル:「同上」。参加者:19名。

11.1 第95回 (三位一体後第17主日)、カンタータ「自分を高くする者は低くされるだろう」(BWV 47) ;オルガン:J. F. カウフマン「などて悲しむや、わが心よ」。参加者:14名。

11.8 第96回 (三位一体後第18主日)、カンタータ「神が私の心を占有なさるように」(BWV 169) ;オルガン:D. ブクステフーデ「今、我ら聖霊に願いまつる」(BuxWV 209)。参加者:19名。

11.15 第97回 (三位一体後第21主日)、カンタータ「私は私の信頼を誠実なる神の上に整えた」 (BWV 188);オルガン:J. S. バッハ「いずこへわれ逃るべきや」(BWV 646)、G. ベーム「わが愛 するみ神に」。参加者:22名。

11.22 第98回 (三位一体後第22主日)、カンタータ「私は哀れな人間、私は罪の下僕」(BWV 55); オルガン:J. G. ヴァルター「勇気を出すべし、わが思いよ」。参加者:17名。

11.29 第99回 (三位一体後第24主日)、カンタータ「あぁ、いかにはかなく、あぁ、いかに空しき ことか」(BWV 26);オルガン:J. S. バッハ「同上」(BWV 644)。参加者:15名。

12.6 第100回 (アドヴェント第1主日)、カンタータ 「いざ来たりたまえ、異邦人の救い主よ」(BWV 61); oルガン:D. ブクステフーデ「同上」(BuxWV )。参加者:21名。

学習プログラム

宗教音楽研究会 11.4/8名、12.2/10名。

コラールの和声 10.16/6名、10.30/5名、11.13/2名、11.27/6名。

コラール研究会 10.23/4名、11.6/4名、11.20/4名、
12.4/4名。 

教養講座:聖書を読む 10.16/7名、10.23/7名、10.30/5名、
11.6/7名、11.13/5名、11.20/7名、11.27/5名、12.4/6名。

バロック教会音楽研究会 10.24/7名、11.7/11名、
11.21/9名、12.5/10名。

バッハの森クワイア(混声合唱)10.18/16名、10.25/18名、
11.1 /16名、11.8/20名、11.15/18名、11.22/20名、
11.29/19名、12.6/20名、12.13/20名。

声楽アンサンブル 10.18/9名、10.25/12名、11.1 /10名、
11.8/14名、11.15/13名、11.22 /13名、
11.29/13名、12.6/14名。

パイプオルガン教室 10.17/6名、10.22/3名、10.31/6名、
11.7/4名、11.11/2名、11.12/2名、11.14/6名、
11.20/3名、11.21/4名、11.26/3名、11.28/5名、
12.4/2名、12.5/3名、12.17/3名、12.18/

2名。

オルガン体験教室 11.8/2名、12.6/2名。

声楽教室 10.24/5名、10.25/4名、11.7/5名、11.8 /4名、
11.21/2名、11.22/4名、12.5/3名、12.6 /4名、
12.12/4名、12.13/4名。 

ハンドベル教室 10.15/5名、10.22/5名、10.29/5名、
 11.5/5名、11.12/5名、11.26/5名、12.3/5名、
 12.10/5名、12.17/6名。