バッハの森通信 第85号 2004年10月20日発行

巻頭言

 学ぶ楽しさ

自分の頭で考え自分の言葉で語ること
難しいことは面白いこと

 夏から秋にかけて、猛暑、台風、噴火、地震(つくば地区で震度5弱)と、日本列島各地に天変地異が続きましたが、皆様、無事にお過ごしですか。幸い、バッハの森は、台風22号に直撃された10月9日に休館したぐらいで、少々の雨漏りの他、被害はありませんでした。
 ところで、去る9月11日から秋のシーズンが始まりましたが、シーズン開始に先立ち、情報サイト「シティネットつくば」の「ウーマンレポート」にバッハの森のメンバー、伊藤香苗さんのインタヴューが掲載されました(http://tsukuba.jp-city.net/w-report/index.html)。伊藤さんは、大学3年生のときバッハの森で学び出してから5年目、去年からバッハの森に住んで、すべてのコースやプログラムに参加して学びながら、バッハの森の運営事務の一部を担当している方です。
 インタヴューで、学ぶことで成長したことは? という問いに、「自分の頭で考え、自分の言葉で語ることの大切さを学んだ」と、彼女は答えます。さらに、バッハの森で学んだ自分の経験に基づいて、バッハの森の活動に参加したいと考えている人たちに、次のようなアドヴァイスをしています。
 「学んでいる間には、先が見えなくて疑問を持つこともあると思いますが、やっぱり我慢が必要だと思います。私も、今、学んでいることにどんな意味があるんだろうか、と不安になることもありました。ですが、我慢して続けていると、次第に学んできたことの関連性が分かってくるのです。それを感じられると、学ぶことがさらに面白くなります。学ぶということを学校卒業以来やってない方には抵抗があるかもしれませんが、ちょっと我慢して学んで行くと、少しずつ音楽の素晴らしさとか、学ぶことの楽しさが分かってくるのじゃないかな、と思います。是非、学ぶ楽しさを学んでください」

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 バッハの森では、「我慢して」学ばなければならないとは、はっきり言ってくださいました。私も今まで「学ぶことの楽しさ」については何回か語りましたが、「我慢して」とは言いそびれてきました。
 それでも、改めて考えてみると、たしかにバッハの森は難しいことをしています。バッハの森でもっぱら歌うバッハもシュッツも、ドイツ語を学ばなければ歌えませんし、グレゴリオ聖歌、パレストリーナ、ヴィクトリアは、ラテン語を知らなければ表現できません。しかし、現在、合唱、オルガン、ハンドベルなどに参加しているメンバーで、以前からドイツ語やラテン語を知っていた人はほとんどいないのです。
 それでも、お互いに「我慢して」学んでいるうちに、誰でも、ドイツ語の歌詞もラテン語の典礼文も、それなりに理解して発音できるようになりました。なぜ我慢できるのでしょうか。伊藤さんの言うとおり、バッハの森で学んでいる音楽は、難しさを我慢できるほど面白くて楽しい、素晴らしい音楽だからです。

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 もう一つ、伊藤さんは、バッハの森の学習の特徴を、自分の頭で考え、自分の言葉で語る、と説明しています。言い換えれば、理解するということです。ドイツ語やラテン語も、大人は丸暗記やおうむ返しで学ぶことはできません。何よりも理解することが大切です。暗記はその後で必要に応じてすればできます。実際、バッハの音楽の本当の難しさは、ドイツ語の歌詞の問題ではありません。聖書にさかのぼる宗教文化史的背景です。それこそ、理解しなければ分からないことなのです。
 バッハの森は「我慢して学ぶところだ」と「ばらされて」しまいましたから、今更、ただ楽しいところだ、とは申しません。でも、本当に滅多にない楽しさを味わうことができるところです。さらに多くの皆さんのご参加をお待ちしております。(石田友雄)

REPORT/リポート/報告

西洋音楽を深く学ぶ面白さ
バッハの森のフルコースを満喫して

 この秋のシーズンから、バッハの森の学習コースは、オルガンのレッスンを除き、すべて木、金、土の週末3日間に集中されました。去る9月30日から10月3日の3日間は、隔週1回と月1回のプログラムも入って、まさにフルコースでした。このフルコースをフルに満喫した比留間恵さんにレポートしていただきました。

9月30日(木)
宗教音楽研究会(講師:石田友雄)午前11時〜12時30分
 G. F. ヘンデル「メサイア」第3部が始まる。先ず、第40曲 アリア(ソプラノ)を、J. E. ガーディナー指揮のCDで鑑賞した。

I know that my Redeemer liveth  
and that he shall stand
at the latter day upon the earth.

私は知る、私の贖い主は生き、
立つであろうことを、
後の日、地上に。

 ヨブ記19章25〜26 節の引用。全く落ち度のない正しい人ヨブを、神はサタンを派遣して試した。サタンはヨブから全てを奪ったうえ、重い皮膚病で苦しめた。たまりかねたヨブが自分が生まれた日を呪い、神の非道に抗議すると、彼を見舞いに来た3人の友人が、神を呪ったりしてはいけないと、代わる代わるいさめた。彼らの「正論」に怒ったヨブは、自分の潔白と神の非道を、自分に代わって訴えてくれる「贖い主」が将来絶対に出現するという確信を語る。それがこの言葉だ。
 Redeemder「贖い主」と訳されている原語のヘブライ語「ゴーエール」は、「嫌疑を晴らす人」、場合によっては「復讐者」という意味。このような広い意味を持っている「贖い主」を、キリスト教徒はイェス・キリストだと理解したわけである。
 know, stand, latter などの長い音に、ヨブの無念の思いに裏打ちされた、キリストを待望する願いがにじみ出て
いる感動的な歌唱だった。

コラール研究会(講師:石田友雄)午後2時30分〜4時
 4世紀のミラノの大司教、アンブロシウス作詞の聖歌“Veni, redemptor gentium”「来てください、異邦人の贖い主よ」と、この聖歌に基づくマルティン・ルターのコラール“Nun komm, der Heiden Heiland”「さあ来てください、異邦人の救い主よ」の歌詞を比較した。午前中に学んだ「贖い主」が早速出てきたが、ルター訳では「救い主」に変わる。処女からの誕生が「神に相応しい」という原詩を、ルターは「神が定めた」と直す。贖い主=神の関係が、救い主と(父なる)神の関係に置き換えられたのだ。処女の妊娠に関する2節、3節も、原詩の生々しい素朴な表現をルターは詩的に訂正する。しかし、この両節を、現代ドイツの讃美歌集が省いているのは、宗教文化史的見て疑問だ。処女降誕を扱いかねているらしい。

教養講座:聖書を読む(講師:石田友雄)
               午後7時30分〜9時
 エレミヤ書1章を読む。先ずエレミヤが、ベニヤミンのアナトトの祭司の家の出身であることが、歴史的に重大な意味を持つことを学ぶ。エフライムを中心とする北方部族と南ユダ族の中間に位置するベニヤミンから、初代の王、サウルが出たが、結局、ユダ族のダビデが全12部族を統合して統一王国を建国し、エルサレムに王都を定めた。紀元前1000年頃のことだ。その後、ダビデの子ソロモンが宮廷陰謀により王位を継承したとき、ソロモンと対抗した王子、アドニヤ側についた祭司アビアタルは、アナトトに追放された。彼は王国成立前にイスラエル諸部族の中心だったシロの神殿の祭司家の出身で、モーセ以来の伝統を継承していた。
 紀元前722年にサマリアが陥落して北イスラエル王国が滅亡、ベニヤミンは南ユダ王国の一部になる。その約100年後、祭司アビアタルがアナトトに追放されてから約300年後、紀元前627年に、エレミヤは預言者になる召命を受けた。多分、ユダヤ人の成人式の年齢、13歳に達した頃だったと思われる。
 このように、古代イスラエルの伝統を一身に継承した人物、エレミヤが、ユダ王国の滅亡に立ち会い、バビロン捕囚を通して選民ユダヤ人が誕生する土台を据えたことは、決して偶然ではない。文化継承の重大さを考えた。

10月1日(金)
バロック教会音楽研究会(講師:石田友雄、石田一子)
               午前10時〜12時30分
 J. S. バッハの教会カンタータ「さあ来てください、異邦人の救い主よ」(Nun komm, der Heiden Heiland)(BWV 62)の第1曲と第2曲を学ぶ。これは同名のコラールに基づくコラール・カンタータ。前日の「コラール研究会」で学んだことの続き。まずこのコラールのラテン語原詩“Veni, redemptor gentium”「来てください、異邦人の贖い主よ」の詩形が、弱強の1行8音節からなるヤンブス形式の4行詩、全8節のHymn であることが説明され、この形式に沿ったアクセントで歌詞を読み、斉唱し、S. シャイトのオルガン編曲から第1節が演奏された。
 次に、ルターのコラール第1節とバッハのカンタータ第1曲の歌詞が微妙に違うこと、コラールの第2節、第3節に基づいてカンタータ第2曲の歌詞が構成されていることを確かめた。カンタータ第1曲の音楽構造を分析した後、リトルネロ(器楽合奏)はオルガン連弾とハンドベルで分担、コラール定旋律を全員で斉唱するという形で実際に演奏してみた。もちろん、音を出してみるだけだが、実際に音符をたどってみると、カンタータの理解を深めることができる。これらの準備の後、CDで鑑賞した。沸き立つ喜びと驚きの中、異邦人の救い主が近づいて来る様子が迫ってきた。

オルガン・レッスン(講師:石田一子)
                午後2時30分〜5時
 伊藤香苗さん、古屋敷由美子さんと一緒のレッスン。グループ・レッスンの長所は、他の人の課題曲も学べること、他の人の問題点を知ることで、レッスンを一度に3回受けた気分になること、一子先生が、いつも、他の2人の意見も聞いてくださるので、皆、遠慮なく批評するから、まるで先生が3人いるようなこと。短所はバルコニーが狭く、先生を含めて4人ではきついこと位い。
 私はS. シャイトの“Veni, redemptor gentium”「来てください、異邦人の贖い主よ」の第2節を弾いた。このオルガン編曲は聖歌の何節を表現していると思うか、と質問され、2行目内声の上下する動きが“mystico spiramine”「神秘的な息」、3行目内声の下降音型の繰り返しが「神の言葉は肉となった」“verbum Dei factum est caro”を思わせるので、第2節と思うと答えたところ、一子先生も賛成してくださった。いつもそうだが、歌詞のある音楽は、器楽曲でも言葉の抑揚と意味が大切なことを学ぶ。

10月2日(土)
声楽レッスン(指導:比留間恵)午後1時〜3時30分
 この時間帯の裏番組では、2時から一子先生の指導でハンドベルをしている。秋から時間を移したため参加者が増え、いよいよ活発に活動している。
 声楽は個人レッスン。歌うだけではなく、コラールの、もちろん、ドイツ語歌詞の音読をしてもらう。声を鳴らす位置が共通であるだけではなく、歌詞内容を理解して読めば音楽になるからだ。自分でもやってみるが、決して易しくない。

バッハの森クワイア(混声合唱)(合唱指揮:比留間恵、歌詞解説:石田友雄)午後4時〜5時45分
 コラール“Nun komm, der Heiden Heiland” の3曲の編曲、パレストリーナのMissa brevis から“Credo”、バッハのカンタータ第182番終曲“So lasset uns gehen in Salem der Freuden” の5曲を練習した。音読と同じ抑揚で歌わせることの難しさに頭をかかえた。やはり「読書百編」だと思った。合唱の合間の解説で、“Credo” の文章構造は、credo「私は信じる」、confiteor「私は承認する」、expecto「私は待望する」の3つの動詞とその目的語から成立していることが説明された。

教養音楽鑑賞シリーズ:J. S. バッハの宗教音楽
(講師:石田友雄、オルガニスト:石田一子、ハンドベル:石井和子、伊藤香苗、岩渕倫子、熊谷徹、三縄啓子、横田博子)午後6時〜7時
 4年間毎週続けてきて123回目。三位一体後第8主日用のカンタータ「主なる神が私たちの傍らに留まっていないところで」(BWV 178)がテーマ。先ずハンドベルが同名コラールの旋律に基づく石田一子編曲を演奏。次にS. シャイデマン(?)による同コラールのオルガン編曲の演奏。続いて同コラールの石田友雄訳による朗読と斉唱。この日の福音書の朗読と解説。
 詩篇124篇に基づく、このコラールは、ルターと共に宗教改革を戦ったJ. ヨナスの作詞。コラールでは、主の名によって攻めてくる恐ろしい敵は、ローマ教会を指しているが、宗教改革から200年後のバッハのカンタータでは、自然科学的真理を絶対視して、教会の教えを攻撃する啓蒙主義を表す「理性」のことだ。ガリレオ裁判が間違っていたことは明らかだが、啓蒙主義以来、人間が「生命の木」にも手を伸ばして神の領域に入り込み、永遠に生きようとしてきた姿勢には問題がないだろうか。

声楽アンサンブル(指導:比留間恵、解説:石田友雄)
午後8時〜9時30分
 合唱で練習した曲にさらに磨きをかけた。解説では、コラール“Nun komm, der Heiden Heiland” と“Credo”を並べて、共通内容の言葉を拾った。Credo がキリスト教のガイドラインであることが、改めてはっきりした。

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 私は、隔週、木曜日からバッハの森に泊まり、日曜日の朝、自宅に戻る。帰りのバスでは、3日間の心地よい疲れで、東京駅までぐっすり眠っていく。勿論、夫の理解があってできることだが、この生活が3年前から続いている。振り返ると、総計12年もバッハの森に通っていることになる。ここでは、異文化である西洋音楽を深く理解する楽しさを味わうことができるからだ。
 特に最近は、一曲のコラールを、関連する多数の歌や音楽と共に、多角的、総合的に学ぶようになった。友雄先生と一子先生の指導の下に、集まった仲間と切磋琢磨しながら理解を深めていく過程が本当に楽しい。ただ悩みが一つだけある。それは、この面白さをどうやって他の人たちに伝え、もっと沢山の方々に参加していただくためには、どうしたらいいか、ということである。

 日 誌(2004.7.6 - 10.15)

7.6 - 9 図書・楽譜整理、秋のプログラムの企画  5名。
7.24 来訪 宮本耕一氏(産業技術総合研究所)・とも子氏(オルガニスト)。
8.24 取材 堀江正和氏(ジャパンシティネット)、他1名。
9.11 秋のシーズン開始
掲載 情報サイト「シティネットつくば」で、伊藤香苗さんがバッハの森の学習生活について語る。
9.17 運営委員会 参加者6名。
9.28 来訪 小出兼久氏(ランドスケープ・アーキテクト)、他1名。
10.9 台風22号のため休館
10.15 運営委員会 参加者6名。

教養音楽鑑賞シリーズ
「J. S. バッハの宗教音楽」
9.11 第120回(三位一体後第1主日)、カンタータ
 「飢えた者にお前のパンを裂き与えよ」;オルガン:
  G. F. カウフマン「大いに喜べ、わが魂よ」;金谷尚美。参加者:15名。
9.18 第121回(三位一体後第2主日)、カンタータ
「天は神の栄光を語り」(BWV 76);オルガン:S. シャイト「神が私たちに恵み深く」, J. S. バッハ「神よ、あなたに感謝し」(BWV 76/14);石田一子。参加者:20名。
9.25 第122回(三位一体後第4主日)、カンタータ
 「永遠の愛の憐れみの心よ」(BWV 185);オルガン:
J. S. バッハ「私はあなたを呼ぶ、主イェス・キリストよ」(BWV 639, 185/6) ;海東俊恵。参加者:21名。
10.2 第123回(三位一体後第8主日)、カンタータ
「主なる神が私たちの傍らに留まっていないところで」
 (BWV 178);オルガン:H. シャイデマン「同上」;
 石田一子。ハンドベル「同上」;石井和子、伊藤香苗、
 岩淵倫子、熊谷徹、三縄啓子、横田博子。参加者:16名。

学習プログラム
宗教音楽研究会 9.30/9名。
コラール研究会 9.16/6名、9.30/6名、10.14/5名。
教養講座:聖書を読む 9.16/7名、9.30/7名、10.7/5名、10.14/6名。
バロック教会音楽研究会 9.17/9名、10.1/9名、10.15/10名。
バッハの森クワイア(混声合唱)9.11/17名、9.18/19名、9.25 /17名、10.2/20名。
声楽アンサンブル 9.11/10名、9.18/13名、9.25 /14名、10.2/11名。
バッハの森ハンドベルクワイア 7.7/5名(ベルみがき)、9.11/6名、9.18/8名、9.25 /8名、10.2/8名。
パイプオルガン教室 7.9/3名、7.20/2名、9.9/3名、9.10/2名、9.15/3名、9.17/5名、9.22/3名、9.24/3名、9.29/3名、10.1/4名、10.7/3名、10.8/3名、10.13/3名、10.15/4名。
声楽教室 9.11/2名、9.17/5名、9.18/2名、9.24/2名、9.25/4名、10.1/5名、10.2/4名、10.15/4名。

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クリスマス・コンサート

12月12日(日)午後2時30分
オルガン:石田一子/合唱指揮:比留間恵
伴奏オルガン:海東俊恵、金谷尚美
バッハの森クワイア
バッハの森ハンドベル・クワイア

J. S. バッハ:「いざ来たりたまえ、異邦人の救い主よ 」(BWV 660, 661)
      「さあ、喜びのサレムへ行こう」(BWV 182/8)
G. P. ダ・パレストリーナ:「キリエ」「クレドー」 
             《ミサ・ブレヴィス》より
S. シャイト:「来たりたまえ、異邦人の贖い主よ」
コラール:「いざ来たりたまえ、異邦人の救い主よ」
「イン・ドゥルチ・ユビロ」    他

寄付者芳名
2004.7.3 - 10.5
2名の方から、計9,000円のご寄付をいただきました。
建物修繕費用・積立会計

2004.7.3 - 10.5
24名の方々と学習コース参加者の皆様から、計85,700円のご寄付をいただきました。