バッハの森通信 第90号 2006年1月20日発行

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巻頭言

 楽しく・元気になる・音楽

   DSGl (J. S. バッハの自筆)

 去年、と言っても、先月開いた「クリスマス・コンサート」と「クリスマス物語」の後の会話です。
 「今日のコンサートはいかがでしたか」と聞くと「ラテン語を知らない私にも、何かが分かったような気にしてくれる演奏でしたね」と答えたのは、バッハの森に初めて来た、つくば市在住の記者氏、「大変楽しくなりました」、「私はとても元気になりました」と答えたのは、1時間半から2時間以上かけて、しばしばバッハの森のコンサートに参加する会員たちでした。コンサートに託した私たちの思いが、参加者に伝わったことを知らされる嬉しい会話でした。

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 21年前、バッハの森が始まって間もないころでした。合唱に参加した一人の青年が、復活祭のコラール「キリストは死の縄目につながれ」を一緒に歌った後で言いました。「景気の悪い歌ですね」。
 正直な感想は歓迎しましたが、だからと言って、10世紀のラテン聖歌「復活の犠牲」をルターが改作し、それに基づいてバッハが作曲したカンタータ4番を、「景気のいい」音楽に取り替えるわけにはいきませんでした。
 この20年間、私たちはもっぱらバッハとバッハ以前の音楽を歌ってきました。去年のクリスマスに歌った、6世紀から伝わるラテン聖歌「太陽の昇る所の果てより」も、確かに、クリスマス・シーズンに世の中に溢れかえっている「景気のいい」メロディーではありません。
 しかしながら、私たちは決して「古楽マニア」ではありません。私たちが古い歌を歌う理由は、その特別な響きに惹かれるからです。
 なぜ惹かれるのか、考えているうちに、「音楽の究極の目的は神の栄光を称えることと、魂の再生である」という、バッハの言葉を思いだしました。このうち第2の目的は容易に理解できます。「魂の再生」とは、平易な言葉にすれば「楽しくなる」「元気になる」ということですから、先に紹介した会員たちの返答が伝えるように、バッハの森の音楽がすでに達成していることです。

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 難しいのは第1の目的です。「神の栄光を称えること」と聞いて、バッハの森で一緒に音楽している大多数のメンバーは、自分はクリスチャンではないから何のことか分からないと言い、クリスチャン・メンバーは、「神の栄光を称えること」とは「神の栄光を称えること」だ、とおうむ返しするだけでしょう。
 実は、これは、誰であれ現代人には説明困難な言葉です。実際、すでに19世紀の人たちに、この言葉の意味がよく分からなくなっていた証拠を、彼らが出版し始めたバッハの楽譜に見ることができます。バッハの手書きの総譜には、最後にDSGlという書き込みがありますが、(これはラテン語の“Deo Soli Gloria”の略記で、「神にのみ栄光あれ」という意味)、19世紀以降、ヨーロッパ人は、楽譜からこの略記を省いて出版してきました。音楽とは無関係な書き込みだと判断したからでしょう。でも、これは、作曲者が音楽の究極の目的だ、と言う言葉である以上、やはり彼が作曲した音楽の演奏にかかわる書き込みではないでしょうか。
 このような場合、消去法によって考えると意味が分かりやすくなります。「神の栄光のため」の音楽とは、「自分の栄光のため」でも「音楽の栄光のため」でもない音楽、となると「天に向かう音楽」ということになります。実際、6世紀のクリスマス聖歌や10世紀の復活祭聖歌には、純粋に「天に向かう」思いが響いています。
 だから、これらの歌を私たちは「天に向かって」歌おうと努めてきました。具体的には、天に向かって語りかける歌詞の思いを理解して音楽する努力です。このようなバッハの森の音楽活動に、皆さんも参加なさいませんか。現代人が忘れてしまった音楽の楽しさを味わうことにより、本当に元気になりますよ。(石田友雄)

R E P O R T/リポート/報告 

クリスマス・メディタツィオ
地 に は 平 和

「ローマの平和」では実現できない平和

明るくて温かいお祭り

 クリスマスほど、長い間、広く世界各地の人々がお祝いしてきたお祭りはないでしょう。言うまでもなく、本来、イェス・キリストの誕生を祝う教会の祭日ですが、キリスト教徒が総人口の約1パーセントしかいない日本でも、クリスマスは、みんなが参加して楽しむお祭りになりました。なぜクリスマスは、これほど人気があるのでしょうか。いろいろな理由が考えられます。が、何と言っても、季節のためだと思います。誰でも、冬の寒くて暗い年の瀬には、明るくて温かいお祭りに惹かれます。明るさと温かさ、これがクリスマスの魅力です。
 では、どうしてクリスマスを、これほど多くの人々が、明るくて温かいお祭りだと思うようになったのでしょうか。その答えを見つけるためには、ナザレのイェスが活動していた、2000年前のパレスチナに戻らなくてはなりません。当時、パレスチナは、地中海の周辺を統一したローマ帝国が支配する属領でした。圧倒的な軍事力と優れた行政組織によって、ローマ人は、地中海世界に、人類史上初めて戦争のない永続する平和な支配を実現しました。これを「ローマの平和」、ローマ人の言語、ラテン語で「パクス・ロマーナ」(Pax Romana)と呼びます。

「ローマの平和」を拒否した人々 

 ところが、パレスチナのユダヤ人だけが「ローマの平和」を拒否しました。彼らは、祖国からローマの占領軍を追い払い、かつてダビデ王が興したユダヤ人の王国を再興することが、神に選ばれた民族の使命だと信じていたからです。それでも、支配階級は、なるべくローマ人と事を起こさず、自分たちの権力を維持することに熱心でしたが、過激派は事あるごとに武装抵抗をしたので、その度にローマ人に鎮圧され、反乱の首謀者は処刑されました。現在のイラクの情勢に似ています。
 他方、過激派を秘かに応援していたユダヤ人民衆は、近い将来、天から派遣される軍事指導者がローマ人を追い払い、選民ユダヤ人のために正義の国を建国する、という期待を抱くようになりました。彼らは、この軍事指導者を、ダビデ家の子孫の称号によって、「メシア」と呼びました。

 このような状況下に、ナザレのイェスの活動が始まりました。彼は、不思議な力によって病気の人を癒し、貧しい人や悲しんでいる人に神の愛を説いて、彼らを元気づけ、支配階級の偽善を激しく非難し、差別されていた下層階級の人々に希望を持って生きる道を示しました。たちまち、救いを求める大勢の民衆が彼の周りに集まり、この人こそ、長い間待ち望んで来たメシアではないか、と考えるようになったのは当然の成り行きでした。そうなると、最初は単にイェスの人気を妬んでいた支配階級の人々も、イェスが、いずれは過激派のリーダーになって大騒乱を引き起こすかもしれない、と心配し始めました。彼らはイェスを逮捕し、この男はローマ皇帝に反逆した、とローマ人総督、ピラトに告訴しました。
 総督官邸でイェスを尋問したピラトは、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねました。「ローマ皇帝の支配に反逆して、ユダヤ人の国の独立をたくらむ過激派のリーダーか」という意味です。「それはあなたが言っていること」とイェスが答えると、「では一体お前は何をして告訴されたのか」と尋ねました。ここでイェスがはっきりと自分の立場を語ります。

「この世に属さない国」

 「私の国はこの世には属していない。属していれば、私が逮捕されたとき、弟子たちが武器をもって抵抗しただろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していないのだ」。
 「この世に属さない国」とは何なのか、ピラトには理解できませんでした。結局、彼は帝国支配の秩序を維持する職務に従って、イェスを十字架にかけて処刑しました。期待を裏切られた民衆は、支配階級の人々と一緒になって、十字架上のイェスを罵り、イェスの一味と見なされることを恐れた弟子たちは逃げてしまいました。独り残されたイェスは、十字架の上で「神様、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで息絶えた、と伝えられています。
 これほど惨めな死に方をした人がいるでしょうか。過激派のリーダーであると誤解され、残酷な十字架刑によって処刑され、空しく死んだこの人のことを、人々がすぐ忘れてしまっても不思議ではなかったでしょう。ところが、一旦四散した弟子たちが、彼は「この世に属さない国」の生き方と死に方をした人だった、ということを、突然、悟ったのです。
 「ローマの平和」は、この世の国が最も成功した例です。しかし、強い者が弱い者を軍事力で支配する「ローマの平和」の下で、一般の人々は本当に幸福だったのでしょうか。明らかにユダヤ人は不幸でした。この不幸を克服するために、彼らはローマ人に抵抗して2回も大反乱を起こした結果、2世紀初めまでに祖国から追放され、それから2000年間、世界中を彷徨うことになりました。「ローマの平和」自体、それほど長続きしたわけではありません。2世紀末にローマ帝国は急速に衰退すると、やがて東西に分裂し、西ローマ帝国は5世紀に滅亡しました。

深い感動の表現

 洋の東西を問わず、この世に属す国が、血なまぐさい権力闘争を通して栄枯盛衰を繰り返してきたことは、歴史が物語っています。イェスの弟子たちも、人間には、このような生き方しかできない、と思っていました。しかし、彼が十字架で処刑され、葬られて3日目に、彼は「この世に属さない国」の生き方と死に方を、この世に待ち込んだ人だった、ということに突然気付きました。それまで経験したことがない深い感動を覚えた弟子たちは、「彼は神の子だった」と言いだしました。「神」とは「この世に属さない存在」という意味です。やがて「本当のメシアだ」という人も現れ、ヘブライ語の「メシア」を、当時の世界共通語だったギリシャ語に翻訳して、「キリスト」と呼ぶようになったのです。
 こうして、彼らが「この世に属さない存在」がこの世に現れた、ということを語り伝えている間に、処女マリアが聖霊によって身籠もってイェスを生んだ、という伝承になりました。後に、教会の重要な教えとなる処女降誕の教義は、本来、ナザレのイェスが「この世に属さない国」の生き方と死に方をしたことに対する感動の表現だったのです。

クリスマスを探し求めて

 同様に、イェスが生まれたとき、天使の大群が現れて、「いと高きところにいます神に栄光あれ。地には平和が、みこころにかなう人々にあれ」と讃美の歌を歌ったという言い伝えも成立しました。「いと高きところ」とは「天の国」すなわち「この世に属さない国」という意味であり、「栄光あれ」とは、天の国の王である神の支配を全面的に受け入れ、讃美するという決心の表明です。興味深いのは、その次の「地に平和があるように」という言葉です。「地」とは「この世」です。しかし、この世一般に「平和」があるように、とは祈っていません。「みこころにかなう人々に」と断っています。「みこころにかなう人々」とは、「この世に属さない国」の王である神の支配に「栄光あれ」(Gloria)という思いを表明する人々のことです。 
 ですから、この天使の大群の讃美の言葉は、「ローマの平和」(Pax Romana)の真っ最中に、「この世に属さない国」の「平和」(Pax)だけが、パクス・ロマーナによっては実現することができない眞の平和を地上にもたらすことができる、と主張した人々の言葉に他ならないのです。
 それにしても、あれから2000年間、結局、人間は「ローマの平和」の生き方に従って、権力の支配による「平和」を追求してきました。その結果、平和はいよいよ遠く、世界中で争いは絶えません。やはり人間には、「この世に属さない国」の 生き方はできないのでしょうか。
 最初に私は、冬になると寒くて暗いから、私たちは、明るくて温かいお祭りに魅力を覚えるのだ、と申しました。残念ながら、この2000年間、人々は世界がますます暗くなることを経験してきました。しかし、いつの時代にも、暗ければ暗いほど、明るくて温かいクリスマスを熱心に探し求める人々がいました。彼らはその思いを託した多くの美しい歌を作りました。これらの歌をご一緒に歌ってみませんか。「この世に属さない国」の明るさと暖かさを経験することができるはずです。(2005年12月11日 石田友雄)


日 誌(2005.10.2 - 12.31)

10. 14 運営委員会 参加者7名。
10. 23 橋本英二・チェンバロ & レクチャーコンサート
  参加者35名。
11. 4 改装・補修工事終了
11. 11 運営委員会 参加者5名。
11. 20 子どもクリスマス・準備会
参加者7名(子ども1名、大人6名)。
11. 27 子どもクリスマス・準備会
参加者12名(子ども4名、大人8名)。
12. 2  運営委員会 参加者5名。
12. 4 子どもクリスマス・準備会
参加者11名(子ども4名、大人7名)。
12. 11 クリスマス・コンサート 参加者56名。
12. 15 掲載 「イングリッシュハンドベルを体験しました」(入江康子)
  『広報つくば』No. 394, 7頁。
12. 18 クリスマス物語 参加者54名。
クリスマス祝会 参加者32名。
12. 20 掲載 『つくば建築フォトファイル』316〜19頁。
12. 22 大掃除 参加者10名。
12. 23〜2006.1.12 冬期休館

J. S. バッハの音楽鑑賞シリーズ 「コラールとカンタータ」(JSB)

10. 8 第154回(三位一体後第12主日)
  カンタータ「誉め称えよ、主を、わが魂よ」 (BWV 69a);
  オルガン:J. S. バッハ「み神のみ業はことごとく善し」(BWV1116)、古屋敷由美子。
  参加者16名。
10. 15 第155回(三位一体後第13主日)
  カンタータ「汝は汝の主なる神を愛すべし」(BWV 77);
  オルガン:J. N. ハンフ「主よ、地を見下ろし」、海東俊恵。
  参加者18名。
10. 22 第156回(三位一体後第14主日)
  カンタータ「感謝を捧げる者、そは我を称える者」(BWV 17);
  オルガン:M.プレトリウス「いざ主を誉めまつれ、わが魂よ」、金谷尚美。
  参加者16名。
10. 29 第157回(三位一体後第15主日)
  カンタータ「なにゆえ悲しむや、わが心よ」(BWV 138);
  オルガン:J. パッヘルベル「同上」、比留間恵。
  参加者16名。
11. 5 第158回(三位一体後第17主日)
  カンタータ「あぁ、愛するキリスト者たちよ、泰然たれ」 (BWV114);
  オルガン: J. パッヘルベル「主、われらと共にいましたまわず」、古屋敷由美子。
  参加者19名。
11.12 第159回(三位一体後第20主日)
  カンタータ「あぁ、われは見たり、今、われ婚宴に行くとき」(BWV 162);
オルガン:J. G. ヴァルター「すべての人みな死すべきさだめ」、伊藤香苗。
  参加者20名。
11.19 第160回(三位一体後第23主日)
  カンタータ「幸いなるかな、真に子供のごとく彼の神に自らを委ね得る者は」(BWV 139);
オルガン:J. G. ヴァルター「慈しみにより助けを与え」、西澤節子。
  参加者19名。
11. 26 第161回(アドヴェント第1主日)
  カンタータ「いざ来たりたまえ、異邦人の救い主よ」(BWV 62);
  オルガン:J. S. バッハ「同上」(BWV 599)、金谷尚美。
  参加者18名。
12. 3 第162回(アドヴェント第4主日)
  カンタータ「汝ら道を備え、公道を整えよ」(BWV 132);
  オルガン:J. S. バッハ「主なるキリスト、神のみ子は」(BWV 601)、海東俊恵
  参加者16名。

学習コース

キリスト教文化入門 10. 13/5名、11. 10/6名、12. 1/7名。

入門講座:聖書と歴史 10. 6/6名、10. 13/6名、10. 20 /7名、
10. 27/5名、11. 10/5名、11. 17/6名、11. 24/5名、12. 1/5名。

宗教音楽セミナー 10. 14/12名、10. 28/12名、11. 11/12名、12. 2/9名。

宗教詩を読む 10. 14/11名、10. 28/9名、11. 11/10名、12. 2/6名。

バッハの森ハンドベルクワイア 10. 8/9名、10 .15/10名、10. 22 /8名、
10. 29/7名、11. 5/11名、11 .12/9名、11. 19 /10名、11. 26/10名、
12. 3/9名、12 .10/9名、12. 17 /10名。

バッハの森クワイア(混声合唱) 10. 8/19名、10 .15/21名、
10. 22 /17名、10. 29/15名、11. 5/24名、11 .12/20名、
11. 19 /17名、11. 26/20名、12. 3/19名、12 .10/20名。

声楽アンサンブル 10. 8/12名、10 .15/10名、10. 22/8名、
10. 29/10名、11. 5/15名、11 .12/13名、11. 19 /11名、
11. 26/14名、12. 3/12名、12. 17 /16名。

パイプオルガン入門コース 10. 5/4名、10. 12/4名、10. 19/4名、
10.26/4名、11. 2/2名、11. 9/4名、11. 16/2名、11. 30/2名、12. 14/4名。

パイプオルガン教室 10.6/9名、10.7/2名、10. 13/4名、10. 20/9名、
10. 21/2名、10. 27/4名、11. 2/3名、11. 4/5名、11. 10/7名、11. 16/3名、
11. 24/3名、11. 25/3名、11. 30/2名、12. 15/3名。

声楽教室 10. 6/2名、10. 8/4名、10. 15/5名、10. 20/2名、10. 22/4名、
10. 23/2名、10. 29/5名、11. 5/4名、11. 10/2名、11. 12/3名、
11.19/5名、11. 20/2名、11. 26/2名、11. 27 /2名、12. 1/2名、12. 4 /2名。

寄付者芳名(2005.10.1 - 12.31)

この間に、7名の方々から、\ 90,000 のご寄付をいただきました。
また、建物修繕費用・積立会計のために、36名の方々から、\ 219,000 のご寄付をいただきました。
感謝をもって報告いたします。