バッハの森通信 第94号 2007年1月20日発行

(バックナンバーはこちら)

巻頭言

私塾・バッハの森のリズム

  定期的・継続的な学びが育む心豊かな生活

 今年で22年目を迎えるバッハの森が「私塾」と名乗り出したのは、今からわずか3年前のことです。この名称には、資格の取得を目的とせずに、一つのテーマを巡って定期的・継続的に学ぶ人々が集まる場、という意味が籠められています。
 しかし、何であれ、資格取得を目的とせずに「一つのテーマを定期的・継続的に学ぶ」というようことは、今日この頃、全く流行らないようです。しかも、バッハの森がテーマにする「聖書と教会音楽」に、“信心”とは別に、純粋に興味を持つ人が何人いるでしょうか。ですから、3年前にバッハの森で「定期的・継続的に学ぶ人々」とそのサポーター、約200人がメンバーとなって、創立19年後にようやく「私塾」と呼べるような活動ができるようになったとき、私塾・バッハの森を共同主宰する妻と私は、“奇跡”だね、と話し合ったものです。

      *     *     *

 このように、定期的・継続的に学ぶ人々が集まり出したので、バッハの森の活動は安定したリズムを刻むようになりました。オルガンと声楽のレッスン、オルガンの個人練習、教会音楽の入門講座とセミナー、聖書、合唱、ハンドベル、弦楽合奏、それに、J. S. バッハの音楽鑑賞シリーズ:コラールとカンタータ(JSB)などが、毎週、或いは、隔週、開かれています。
 これらの活動に参加するため、週2回から3回以上バッハの森に通う人もいれば、仕事の関係上、土曜しか来ることができない人もいますが、全員で協力して、学んだ音楽を広く分かち合うためのコンサートを、年に4、5回開きます。

      *     *     *

 それにしても、なぜ彼らは、私塾・バッハの森で定期的・継続的に学ぶようになったのでしょうか。バッハの森は宗教団体ではありませんから、“救い”を求めて集まったのでないことは確かです。彼らに共通する理由は、バッハの森で、その響きの再現を追い求めている音楽の美しさに魅了された経験だと思います。それは、バッハまでのヨーロッパの教会音楽が持つ独特の響きで、明らかにモーツアルト以降とは違う音楽です。
 しかし、バッハの森は、古い響きの美しさのみを追求する“古楽愛好家”の団体ではありません。このような美しい響きが何を表現し、何を目指しているのか、ということに旺盛な好奇心を抱いて活動しているからです。その際に、先ず歌詞が問題になります。私たちが歌う歌は、もっぱらドイツ語とラテン語ですから、発音や文法も知らなければなりませんが、それに留まらず、その思想内容を理解するため調べていくと、否応なしにキリスト教文化と聖書に行き着きます。このように、学ぶ領域がどんどん広がっていくので、手軽に済ますことはできません。自然に活動が定期的・継続的になりました。
 しかしながら、バッハの森を動かしている根元的なエネルギーは、単なる好奇心でもありません。それは“心豊かな生活”をしたい、という強い願いです。この願いを実現するための優れた方法として、“安息日”という、定期的・継続的に豊かな心を育むための制度の重要性を再確認しました。教会音楽の源泉となった聖書を書き残した、古代ユダヤ人が始めた制度です。 
 “安息日”とは、六日間働いたら七日目には休んで、神が天地を創造したことを思い出して楽しめ、という制度です。私塾・バッハの森に集まる皆さんは、少なくとも一週間に一日、普段の生活を休み、バッハの森で、「天地の創造主を讃美」する古い教会音楽の響きを楽しんでいます。
 安息日には、神が天地を創造したことを思い出して楽しめ、という古代ユダヤ人の言葉を現代風に翻訳すると、自分が、大宇宙の広がりの中では余りにも小さな存在にすぎないことを思い出し、それにもかかわらず、今日、こうして命があることの不思議を喜び、生きていることを楽しめ、ということになるでしょうか。
 もしあなたが、“心豊かな生活”に憧れている方なら、どうぞ私塾・バッハの森にご参加ください。(石田友雄)

R E P O R T/リポート/報告 

クリスマス・メディタツィオ
命を生かす力は愛

 「この世に属さない国」から来た人の誕生日を
忘れることができない理由

*このメディタツィオは、2006年12月10日にバッハの森で
開かれたクリスマス・コンサートで朗読されました。

 今年も、イェス・キリストの降誕を祝う、クリスマスが巡ってまいりました。バッハの森では、毎年、その年のクリスマスのコラールを選び、クリスマス・コンサートを目指して、秋のシーズンを通し歌い続けます。今年は“Gelobet seist du, Jesu Christ”「誉め称えられよ、汝は、イェス・キリストよ」を歌ってまいりました。
 このように、毎年、クリスマスのコラールを歌って来て気付くことは、すべてのクリスマスのコラールやラテン聖歌に共通するテーマとして、「処女マリアの子」というテーマが、真っ先に歌われていることです。例えば、今年の主題コラールは、次のような歌詞で始まります。

  誉め称えられよ、汝は、イェス・キリストよ。
  汝は人として生まれたもうた、
  処女マリアより。

その後に、わざわざ“das ist wahr”「これは真実(マコト)なり」と続きます。イェス・キリストが処女マリアから生まれたということが、非常に大切なことだという思いが伝わってきます。これは、一般に「処女降誕」と呼ばれる教義ですが、古代、中世、宗教改革時代を通じて、キリスト教徒は、この教義を大切に伝えてきました。ところが、現代のキリスト教徒は、それをまともに取り上げることが、どうも苦手のようです。
 例えば、4世紀のラテン聖歌に基づいて、ルターが作詞した“Nun komm, der Heiden Heiland”「いざ来たりたまえ、異邦人の救い主よ」という有名なアドヴェントのコラールがあります。その第1節で「処女の子として知られた方」と呼びかけ、そのような不思議な誕生を救い主のために神が定めたことを、世の人々は皆驚いた、と歌い、第2節と第3節では、さらに詳しく、どのようにして処女が救い主を生んだかということを語ります。

第2節  男の血にも肉にもよらず
    ただ聖霊によりて
    神の言葉は人となれり。

第3節 処女の身体は身重となるも、
    貞潔は潔く守られ・・・

 しかし、この第2節と第3節を、現代のドイツの福音主義教会が編纂したコラール集は省略します。明らかに、現代ドイツのキリスト教徒が、処女降誕という教義を信じていないか、少なくとも大切にしていない証拠です。

     *     *     *

 多分、今、ここにお集まりの皆様も、「処女降誕」という教義は、昔の人が創作したメルヘンに基づく信仰だろう、とお考えになっているのではないでしょうか。確かに、処女が子供を生んだという現象だけを取り上げると、単なる奇跡物語です。しかし、この教義のもとになった、新約聖書の受胎告知物語を読んでみると、かつてキリスト教徒が処女降誕にこれほどこだわった本当の理由が見えてきます。
 すなわち、処女マリアに現れた天使カブリエルが、「あなたは神から恵みをいただいた。あなたはみごもって男の子を生む」と伝えると、マリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えます。すると天使が再び告げます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と物語は語ります。
 ミサの「クレドー」は、この天使とマリアの会話を次のように要約します。

et incarnatus est  そして彼は肉となった、
de Spiritu Sancto  聖霊により
ex Maria Virgine   処女マリアより。
et homo factus est そして人となった。

 このような、天使とマリアの会話、或いは「クレドー」が伝える、最も大切なメッセージは何でしょうか? イェス・キリストを身籠もったとき、マリアが「神の恵み」、「いと高き方の力」、すなわち、「聖霊」を受けたということではありませんか。そのとき彼女が処女であったという説明は、マリアが、人の力によらず、神の霊だけでイェス・キリストを身籠もった、ということを語るため
の究極の表現にすぎなかったのです。
 従って、イェスの母、マリアの処女性は、本来、生物学的な問題ではありません。信仰的な表現なのです。もし、「信仰」という言葉に戸惑う方がいらっしゃるなら、世界観、或いは、人間観に関わる問題だと申しましょう。

       *     *     *

 キリスト教は、2000年前に、現在のイスラエル、乃至は、パレスチナで活動していた、ナザレのイェスという、類い希なる人物の生き方と死に方に感動した弟子たちが、彼の死後、集まって始めた宗教です。彼らを感動させた、彼の生き方と死に方を示す、短いエピソードを紹介しましょう。すなわち、ローマ皇帝に反逆を企てている、という讒言を受けて逮捕されたイェスを、ローマ人の総督ピラトが尋問して訊ねました。「お前は、ローマ皇帝に反逆を企てたユダヤ人の王なのか」。するとイエスは次のように答えました。「私の国はこの世には属していない。もしこの世の国なら、逮捕されないよう戦っただろう」。こうして、全く無抵抗のイエスは、その日の午後、十字架に掛けられて処刑されました。
 勿論、イェスはこの世で生きていた人です。病人を癒し、貧しい人々を励まし、悲しむ人々に慰めを与える彼の活動は、特に恵まれない階層の民衆を惹きつけました。民衆は、彼こそ長い年月待っていたメシアではないか、と考えました。同時に、彼が奇跡的な力で、ローマの占領軍を追い払ってくれることを期待し始めたのです。しかし、彼は、過激派のように、占領軍を軍事力によって追い払おうとはしませんでした。それは「この世に属す国」がすることだという彼の主張は、ローマ総督のピラトにも、民衆にも、いや弟子たちにも理解されず、誤解されたまま、十字架に掛けられて処刑されたのです。
 ところが、彼の死後、弟子たちは、「この世に属さない国」という彼の言葉の意味が初めて分かりました。「この世に属す国」は人の命を殺すことしかできない。これに反して、「この世に属さない国」は人の命を生かすという真理です。この真理を、自分の命をかけて伝えたナザレのイェスは、「この世に属さない国」から来た人に違いない、という弟子たちの思いが、彼の誕生物語に結実したのです。こうして、彼は、人の力によらず、ただ神の力により、従って、処女マリアから生まれた人だったという物語が、語り継がれるようになったのです。

      *     *     *

 これから私たちが演奏する教会カンタータ(BWV 64)は、降誕祭第3祝日のために、J. S. バッハが作曲した音楽ですが、その第1曲の合唱の歌詞は、ナザレのイェスの生き方と死に方に感動した弟子の一人、ヨハネの言葉で、「見よ、どれほどの愛を御父は私たちにお示しになったか、私たちが神の子らと呼ばれるために」と歌います。
 最初の「見よ」という言葉は、「よく考えて見なさい」という意味です。そして、私たちを「神の子ら」にするために、父なる神が示してくださった愛がいかに深いか、ということを考えよと告げます。
 いきなり、「神の愛」と言われても、何のことか分からない方が多いでしょう。そこで、誰でも分かる、人の命について考えてみます。
 かつて人間は、洋の東西を問わず、子供は天からの授かりものだと考えていました。しかし、現代世界において、ヒトの生殖は、もはや神秘的領域に属す問題ではなくなりました。ヒトの卵子を試験管の中で受精させ、それを女性の子宮に戻して子供を生ませるという技術が実行されていることは、もはや常識になっています。この調子で技術革新が進むなら、ついには子宮も卵子も精子もすべて合成されるようになるかもしれません。すでにクローン人間の可能性が取りざたされているではありませんか。
 しかし、人間は、いずれヒトの命も創り出せるだろうという予測は錯覚です。ヒトの命に関して人間に出来ることは殺すことだけです。命を創り出すこと、命を生かし続けること、それは、いずれも人間の力には及ばないことなのです。現代人は、ヒトの命が生まれることも死ぬことも、自然現象だと説明します。しかし、聖書を書いた人々は、それは「神の愛」だ、と考えました。
 彼ら古代の人々が「神の愛」と表現したことを理解するために、自分の命の始まりを考えてみてください。普段、私たちは忘れていますが、すべての人は、その両親が愛し合ったからこの世に生を受けたのです。さらに、私たち人間は、全員、生まれた後、長い年月、愛し育まれなければ成人できない生物(イキモノ)です。それだけではありません。実は、今、この瞬間も、私たちの命が存続しているのは、いろいろな要因に支えられているからなのです。生物学的要因はもとより、社会的要因もあれば、自然環境のような要因もあります。これらの要因のどれか一つが私たちに敵対的になったとき、私たちの命は、一瞬にして終わります。重病、自然災害、交通事故、殺されるということすら起こります。考えてみると、私たちの命は、何と危う状況の中で生存していることでしょうか。
 この構造を自然現象と呼びますか。愛と呼びますか。世界観、或いは、人間観に関わる問題だと申し上げた理由です。しかし、人の生き死には自然現象だと考える方も、人を生かす決定的な要因が「愛」と呼ばれる思いと行為であることを、否定なさらないと思います。
 いずれにしても、ナザレのイェスが十字架で処刑されてから2000年間、人間は「この世に属す国」の歴史を綴ってきました。それは戦争に次ぐ戦争の歴史であり、21世紀になってますますエスカレートする殺戮の歴史です。それにもかかわらず、「この世に属さない国」で「神の子ら」になることが、人の命を生かす唯一の道であり、人間を愛す神がのぞんでいらっしゃるとだ、と教えたナザレのイェスの誕生日を忘れることができない人々が、世界中に大勢います。なぜでしょうか? ご一緒に、よく考えて見ませんか。(石田友雄)

秋のワークショップ

   多くの収穫があった新しい試み

 2006年10月14日(土)午後4時〜7時に、クリスマス・コラール:「誉め称えられよ、あなたは、イェス・キリストよ」“Gelobet seist du, Jesu Christ” をテーマに、クワイアとオルガン教室の共催で、ミニ・ワークショップを開き、ゲストとして、ヒューストン(テキサス州)大学音楽部で博士論文作成中のジョナサン・ウォーラーズさんと志賀菜穂美さん夫妻を招待しました。二人とも、ボストンのニューイングランド音楽院を卒業し、今後の活躍を嘱望されている若手のオルガニストです。
 ジョンさんと菜穂美さんにオルガンとチェンバロを受け持っていただき、テーマ・コラールとオルガンとの交互演奏(アルタナティム)、合唱とオルガン、オルガン独奏、ソプラノとヴァイオリンとチェンバロによるアリアなどを、話し合いながら演奏してみました。
 特に、ジョンさんによるD. ブクステフーデの「ファンタジー」 (BuxWV 188)の演奏と分かり易い説明、菜穂美さんのオルガン独奏(BWV 604)の美しいタッチが印
象に残った、と多くの参加者から聞きました。
 バッハの森のクワイア・メンバーとオルガン教室の受講生たちは、高名な音楽家から学ぶ場合とは違って、同年輩の若手オルガニストと意見交換をしながら、一緒に音楽造りをする楽しみを味わいました。また、2ヶ月後に開かれる「クリスマス・コンサート」のよい準備になりました。これは、これまで開いたことがない新しい試みでしたが、今後も折を見て開きたいという希望が寄せられています。
 その後、ジョンさんと菜穂美さんから、バッハの森に宿泊した経験も含めて、大変楽しかったという、次のようなお手紙をいただきました。

バッハの森の皆様

 今日は。皆さん、お元気ですか? 先日のワークショップで、初めてご一緒させていただいた、ジョンと菜穂美です。バッハの森では、皆さんと音楽を共有する喜びに、どっぷり浸かることができて、本当に楽しかったです。素晴らしい時間を、有り難うございました。
 10月14日のワークショップは、皆さんがクリスマスに向けて学んでいらっしゃるコラール:Gelobet seist du, Jesu Christ「誉め称えられよ、あなたは、イェス・キリストよ」がテーマでした。アンサンブル、合唱、飛び入りだった私たちのオルガン & トークまで、バッハの森の温かくて開放的な雰囲気に包まれながら、自然な流れに乗って会が進んでいきました。会が終わった後のリセプションも、美味しいし、楽しいし・・・で、皆さんの明るい笑顔や笑い声がとても印象的に心に残っています。
 バッハの森の数日間には、色々な感動がありましたが、その中でも特に驚いたのが、ワークショップでのクワイアの演奏でした。とても立体的な音楽造りがされていて、その響きの中には、歌詞の理解と音楽への愛が込められ、それは、もはや音が綺麗に並んでいるだけではなく、説得力をもって私たちの心に力強く語りかけるものでした。 
 皆さんが謙虚に音楽を見つめて、様々な角度からバランスよく学んでいらっしゃる姿を見て、私たちは、音楽に対する新たな興奮と更に勉強していくためのヒントをいただきました。有り難うございました。
 またお会いできる日を楽しみに。次にお会い出来るときまでは、音楽の宇宙のどこかでお会いしていましょう。

感謝を込めて・. 2006年10月23日
ジョナサン・ウォーラーズ & 志賀菜穂美

友雄先生、一子先生へ

 無事にヒューストンに帰って来たと思ったら、ホッとする暇もなく、普段の日常の仕事に戻っています。戻って数日は大雨であたりは真っ暗。やっと雨が上がったと思ったら、今度はかんかん照りで真夏のよう・・・。バッハの森の爽やかな朝や、ねこちゃんのお散歩、鳥のさえずり等、平和な世界が嘘のようです。
 さて、先生たち、バッハの森の皆さんとの楽しい交わり、一子先生の美味しいお料理に、私たちはすでにホームシック状態です。アーレント・オルガンの音とタッチも懐かしくて、あの音をイメージしながら「空中弾き」をしています。まだ薄暗い朝5時頃から、パジャマのままアーレント・オルガンに会いに行き、その美しい顔をたっぷり眺め、6時には静かな音を鳴らし始める。音を聴いている間に、新しい即興のイメージが湧いて来たりして・・・。何と贅沢な時間だったのでしょう。夢のよ
うです。
 お二人のお働きや生き方は、私たちの目にとっても眩しいです。日本に帰ったら、絶対に先生たちとお勉強がしたいです。 菜穂美

John and Naomi

説明するジョンさんと通訳する菜穂美さん

たより

残念ながら来年はご一緒に音楽ができません
        2006年11月20日
        ドイツ・シュヴェリン

バッハの森の皆様
 10月31日のお手紙、有り難うございました。バッハの森の活動、特に合唱が大変上達したとうかがい、嬉しく存じます。
 バッハの森は、今や本当に自立して活動しています。その活動にマインデルトと私が少々貢献できたことをとても嬉しく思っています。ただ残念ながら、来年はご一緒に音楽ができなくなりました。私たちの生活環境が変わったためです。どうぞご了解ください。
 現在、私たちは、来週の日曜日のために、モーツアルトのヴァイゼンハウス・ミサとミヒャエル・ハイドンのレクエムを練習しています。両方とも大変美しい作品です。残念なことに練習する時間が足りません。来年1月に、メンデルスゾーンのパウルスを演奏しなければならないからです。
 マインデルトは小学校の仕事にかかり切りです。朝7時に家を出て夕方まで働いています。しかし、9歳から11歳の子供たちに教えるのをとても楽しんでいます。皆様、どうぞお元気で。心からのご挨拶を送ります。

ヤン・エルンスト

     *     *     *

コラールを歌いましょう

    オルガニストの勧め

 今年は、バッハの森でオルガン教室を始めて10年目。現在、20代から50代の様々な経歴を持つ15名の方々と、試行錯誤を繰り返しながら、コラールのオルガン編曲を学んでいます。「オルガンを習いに来たら歌えと言われた」という、バッハの森では有名な逸話が、ここの教室の特徴をよく表しています。
 なぜそれほど歌うことにこだわるのでしょうか。バッハのオルガン曲の約三分の二が歌を主題とするコラール編曲だからです。また、声を出して歌を歌うという行為は、人間の本性と深く関わっていると思います。古代人が神々へ向かって様々な願いや思いを語りかけ、高揚した思いが詩になる。西洋音楽の源であるギリシャの詩は音楽のリズムを内蔵していて、詩の朗読は即ち音楽であり詩と音楽は一体であったと、ゲオルギアーデスが『音楽と言語』の冒頭で述べているのを読んで、深い感銘を受けた経験があります。

       *     *     *

 バッハの教会カンタータ、受難曲、オルガンのためのコラール編曲などを学んでいると、これらの宗教曲の土台がコラールであり、コラールがドイツ人の「魂の歌」であったことがよく分かります。ですから、コラールを知り、声を出して歌わない限り、バッハの宗教曲を理解することはできないのです。
 そこで、「コラール詩を朗読するように歌い、歌うようにオルガンを弾く」という、オルガン教室の目標を掲げました。この目標に従い、オルガンを習いたい人は、まずコラールの第1節の歌詞を原語で朗読することが求められます。残念なことに、現代の音楽教育の中には、詩の朗読が音楽と密接に結びついている、という発想がないらしく、最初は誰もが戸惑います。しかし、特にコラールは旋律のリズムとアクセントが、原語のドイツ語の歌詞のそれと一致するという幸いな特徴がありますから、朗読すると、そのコラールの音楽的特徴も同時に把握できるということを、徐々に体験するようになります。
 朗読とは、単語を一語一語発音することではありません。正しい発音に加えて、詩の内容を理解し、出来れば何らかの感情移入をすることが大切です。ドイツ語が母国語でない上、全く異文化で育った私たち日本人にとって、これは最大の難関ですが、近道はありません。それでも、詩と旋律が同じリズムとアクセントであるならば、旋律に沿って、しかし歌わないで詩を朗読すればよいのではないか、と考えました。難関を突破するための一つの方法かもしれません。

       *     *     *

 次に、誤解を招くのが、「歌うように弾く」という言葉です。他の楽器を演奏する際にも、この表現はしばしば用いられるからです。しかし、バロック時代の音楽では、ニュアンスが微妙に違うように思います。「歌うように」の意味する現代のイメージは、もっぱら美しく、ロマンチックなものです。しかし、コラールは、16 、17世紀に作詞された宗教詩なので、中には現代の感覚では受け入れ難いどぎつい表現があり、当然、音楽もその表現に従って歌わなければならない場合が多々あります。「歌うように弾く」ではなく、「歌のように弾く」と訂正するべきかもしれません。
もう一つの誤解は、密かに一人でコラール詩を音読し、歌ってみることが要求されていると思われがちなことです。もちろん、個人的な準備としては、そのような形で学ぶことも大切でしょう。しかし、コラールは、本来、長い年月繰り返して歌い続ける歌、会堂に集まった人たちが全員声を揃え、心を一つにして力の限り歌う歌なのです。このことを、私はエルサレムのドイツ教会のオルガニストを務めていたとき、世界各地から集まる巡礼の人たち、エルサレム近郊に住み、社会福祉に身を捧げているディアコニッセの婦人たちなどから学びました。彼らにとって、幼い頃から歌ってきたコラールを歌うことは、呼吸をしているようなものなのでしょう。コラールを歌うことは、この人々の生きてゆく支えになっていたのです。

       *     *     *

 嬉しいことに、バッハの森に集うメンバーが、このようなコラール斉唱の喜びを実感できるようになってきました。確かに、全員で歌うときは、石田友雄の日本語訳で歌います。原語のリズムとアクセントはなくなりますが、その代わりに、歌詞の意味内容が直接伝わるので、容易に感情移入をすることができます。事実、コラールを何節も歌っているうちに、感動のあまり涙する人々を見かけることがしばしばあります。
 今やバッハの森は、オルガニストがコラールのオルガン編曲を学ぶために最適の場になりました。オルガンを学びたい方はもちろん、バッハの森に集う皆さん、ご一緒にコラールを歌いましょう。力の限り心を合わせ声を合わせてコラールを歌っていると、日常から離れてコラールの世界に入っていく喜びを体験することができるのです。(石田一子)

          *     *     *

       

日 誌2006. 4. 1 - 6. 30

10. 14 ワークショップ ジョナサン・ウォーラーズ氏と
    志賀菜穂美氏夫妻(オルガニスト)をゲストに招待して、
    バッハの森クワイアとオルガン教室が共催。
 参加者24名。

10. 17 取材 高岡健一氏(フォトグラファー)、丸山克生氏、
    荻原和子氏(ビー・ビー・ビー)。 

11. 14 取材 友常紀光氏(ぷらざ茨城)、永井浩行氏(カメラマン)。

11. 20 掲載 つくばエクスプレス沿線情報誌「サワワ」
    2006年12月号、10〜11頁。

12. 7 掲載 生活情報紙「ぷらざCHANCE」Vol. 6。

12. 10 クリスマス・コンサート 参加者57名。

12. 17 クリスマス物語 参加者70名。
クリスマス祝会 参加者38名。

12. 20 打ち合わせ 村田修治氏(柏市生涯学習指導員)、
榎本清子氏(柏市田中近隣センター)。

12. 21 大掃除 参加者12名。

12. 25 改修工事終了

J. S. バッハの音楽鑑賞シリーズ
「コラールとカンタータ」(JSB)

10. 21 第186回(三位一体後第18主日)、
カンタータ 「神が私の心を占有なさるように」(BWV 169);
オルガン:D. ブクステフーデ「我ら願いまつる、聖きみ
霊の主よ」(BuxWV 209)、安西文子。
参加者20名。

10. 28 第187回(三位一体後第21主日)、
カンタータ「私は信じます。愛する主よ、私の不信仰を助けてください」(BWV 109);
オルガン:J. S. バッハ「アダム罪に堕ち」(BWV 637)、金谷尚美。
参加者14名。

11. 4 第188回(宗教改革記念日)、
カンタータ「堅固な城塞である、私たちの神は」(BWV 80);
オルガン:J. G. ヴァルター「同上」、住田眞理子。参加者19名。

11. 11 第189回(三位一体後第22主日)、
カンタータ「備えよ、私の魂よ」(BWV 115);
オルガン:「同上」、古屋敷由美子。参加者16名。

11. 18 第190回(三位一体後第24主日)、
カンタータ「あぁ、なんんと儚く、あぁ、なんと空しいことか」(BWV 26);
オルガン:J. S. バッハ「同上」(BWV 644)、伊藤香苗。参加者17名。

11. 25 第191回(三位一体後第26主日)、
カンタータ「目覚めよ、祈れ、祈れ、目覚めよ」(BWV 70);
オルガン:G. ベーム「喜べ、わが魂」、金谷尚美;
ヴァイオリン:住田眞理子、古屋敷由美子。参加者18名。

12. 2 第192回(アドヴェント第1主日)、
カンタータ「さぁ、おいでください、異邦人の救い主よ」(BWV 61);
オルガン:J. S. バッハ「同上」(BWV 599)、古屋敷由美子。参加者21名。

学習コース

バッハの森クワイア(混声合唱)
10. 21/18名、10. 28/13名、11. 4/16名、11. 11/14名、
11. 18/14名、11. 25/19名、11. 27/2名、12. 2/18名、
12. 9/20名、12. 16/21名。

バッハの森ハンドベルクワイア
10. 21/7名、10. 28/7名、11. 4/8名、11. 11/7名、
11. 18/6名、11. 25/9名、12. 2/9名、12. 9/9名。

声楽アンサンブル
10.14/9名、10. 21/10名、10. 28/10名、11. 4/9名、
11. 11/9名、11. 18/11名、11. 25/15名、12. 2/12名。

弦楽アンサンブル
10. 13/4名、10. 20/4名、10. 27/5名、11. 10/5名、
11. 17/4名、11. 24/3名、12. 8/5名、12. 15/5名、12. 16/4名。

宗教音楽セミナー 
10. 20/10名、11. 10/10名、11. 24/11名。

宗教音楽入門 
10. 13/10名、10. 27/9名、11. 17/9名、12. 1/9名。

パイプオルガン教室

10. 11/10名、10. 12/5名、10. 14/2名、10. 17/2名、
10. 18/4名、10. 19/4名、10. 21/2名、10. 25/4名、
10. 26/6名、10. 28/2名、11. 1/4名、11. 4/2名、
11. 8/9名、11. 9/3名、11. 11/2名、11. 15/4名、
11. 16/10名、11. 22/8名、11. 25/2名、11. 29/2名、
11. 30/7名、12. 14/4名、12. 27/2名。

声楽教室
10. 14/2名、10. 20/2名、10. 21/4名、10. 27 /2名、
10. 28/2名、11. 4/4名、11. 9/3名、11. 11/2名、
11. 18 /4名、11. 25/5名、12. 2/4名、12. 9/5名、12. 15/2名。

入門講座:聖書と歴史 
10. 13/5名、10. 20/5名、10. 27/5名、11. 10/5名、
11. 17/5名、11. 24/5名、12. 1/6名。

寄付者芳名(2006.10.8 - 12.31)

4名の方から計31,500円のご寄付をいただきました。

建物修繕費用・積立会計(2006.10.7 - 12.31)

22名の方々から計116,000円のご寄付をいただきました。