石田一子は、昭和4年(1929年)1月17日に、現在の東京都文教区で生まれました。
父、木村清三郎は武蔵高等学校講師、後に在東京カナダ公使館の嘱託通訳官となり、母、文(ふみ)は東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)の教員でした。
木村清三郎は滋賀県八日市市の出身、明治36年(1903年)に17歳でカナダに渡り、その後、トロント大学で学び、そこでウィリアム・ケイリー氏と出会いました。ケイリー氏はその30数年後、ニューヨーク州ロチェスターで牧師となり、アメリカに留学した一子の身元引き受け人になってくださった方です。
母、(旧姓、内田)文(ふみ)は、京都府宮津で生まれ、神戸女学院に学び、大正4年(1915年)に米国ペンシルヴェニア洲のブリンモア女子大学から奨学金を得て留学しました。これは明治初年以来、4年に1人、日本人女子学生に与えられた名誉ある奨学金で、この奨学金により、第1回の津田梅子を初め、河合道、藤田たきなど、すぐれた女子教育界の指導者が育てられてきました。
文は5年間の留学を終えて帰国、東京女高師の講師になり、昭和36年(1961年)にお茶の水女子大学教授として定年退職するまで41年間にわたり、英語・英文学の教育にたずさわり、多くの学生、研究者を育てました。この間、昭和2年(1927年)に結婚、その2年後に長女、一子を出産しました。その後、兄弟姉妹が生まれることなく、一子は一人っ子の一人娘として育てられました。
父、木村清三郎はカナダに移住後キリスト教に改宗して新しい宗教文化に興味を持ち、トロント大学卒業後、さらにニューヨークのユニオン神学校で神学を学びましたが、牧師にはなりませんでした。
他方、母、文は3代目のクリスチャンでした。一子は幼児のときに、芦花公園近くのシオン教会で幼児洗礼を受け、その後も両親につれられてシオン教会の日曜礼拝に出席していましたが、その頃、石田友雄は、月曜日から土曜日まで、シオン教会の付属幼稚園に通っていました。幼年時代に二人がニヤミスをしていたことは、それから40年近くたって結婚してから初めて知りました。
一人娘の一子は、両親の愛を独り占めにして育ちましたが、母親の影響が、特に強かったようです。まず母が勤務する東京女高師の付属幼稚園に入園、そのまま付属小学校、付属高女と進学、昭和23年(1948年)に19歳で同高女専攻科を卒業しました。言うまでもなく、一子の少女時代は大変な時代でした。小学校に入学すると日中戦争が始まり、日米戦争の最中に高女(現在の中学校)に進学しました。3年生のときには、もう勉学どころではなくなり、15歳の少女たちが軍需工場に動員されて、大砲の弾丸の部品を作る作業をさせられました。3月10日の東京大空襲も経験しましたが、幸い一子の家は焼け残りました。それから数ヶ月、新潟に集団疎開をしている間に終戦になりました。
しかし、一般国民にまで戦火が迫ったのは戦争末期の数年でした。それまで、特に子供たちは、普通の生活をしていましたから、小学生時代に、一子はピアノを習い始めることができました。ただし、それは、当時の代表的なピアニストの一人として著名な、井口基成氏と秋子氏夫妻に師事する本格的なレッスンでした。一子に音楽的才能があると思った母親が取り計らったことでした。確かに一子は音楽が好きな子供でしたから、戦争で世の中が逼迫するまで、成城の井口家に通い続けました。しかし、本当は行きたくたかった、と後で思い出話しをしていました。基成先生の厳しいレッスンが怖くて、よく泣いたそうです。それでも、秋子先生がバッハの2声のインヴェンションを、同じ旋律の追いかけっこよ、と分析して教えてくださったとき、こんなに面白い音楽があるのかと夢中になったのが、バッハと出会った最初でしたし、このとき音楽の基礎教育を受けたことが、後でオルガニストになるための良い準備になったことは間違いありません。
一子が16歳のときに戦争が終わり、戦火で荒れ果てた日本は、復興を目指す活力に満ち溢れ、時代の担い手は、権威を失った大人たちから自由を獲得した若者たちの手に移っていました。このような世の中の風潮の中で、10代後半になった一子も、ようやく自分で自分の人生を考えるようになりました。先ず、それまで無意識に受け入れてきたキリスト教信仰をもう一度考え直し、あちこちの教会を訪ね歩いているうちに、弓町本郷教会の田崎健作牧師と出会い、同教会で信仰告白をしました。
同時に、戦争のため中止していた井口家のピアノのレッスンに戻ることを止めました。コンクールを目標とするレッスンに疑問を抱いたからです。その頃、偶然、キリスト教音楽学校の生徒募集のポスターを見かけました。そのとき、彼女に、自分の進むべき道は教会オルガニストになることだ、という思いがひらめきました。一子、19歳のときです。
それから2年間、オルガニストの木岡英三郎氏が創立したキリスト教音楽学校で、木岡先生にオルガンの手ほどきを受けましたが、後から考えると、演奏技術を学ぶより、日本にオルガン音楽を広めた草分け的存在だった木岡先生から、彼のオルガンに対する情熱と夢、彼が弾いたアメリカやヨーロッパの大オルガンの素晴らしい響き、彼が師事したドイツやフランスの偉大なオルガニストたちのことなどを沢山うかがったと言います。一子のアメリカ留学の夢は、木岡先生との出会いから始まりました。
すでに述べたとおり、一子の両親は若いときに、それぞれカナダとアメリカ東部の大学に学んだ人たちでしたから、彼女の留学希望に賛成し、彼女の夢が実現するよう、アメリカの友人たちと連絡を取ってくれました。現代の日本では想像もできないことですが、終戦間もない、講和条約締結前の日本から出国するのは容易なことではありませんでした。円の持ち出しが禁止されていましたから、ロチェスターのケイリー牧師が、一子を家庭に迎え入れてくださらなかったら、この時留学することはできなかったでしょう。しかも、幸いなことに、ロチェスター大学の音楽部は、アメリカ有数の音楽学校の一つ、イーストマンでした。
一子は、昭和25年(1950年)、21歳のときにアメリカに留学しました。両親の助けがなければ出来ない留学でしたが、それにしても、終戦後まだ5年、アメリカ人大衆が日本人を敵国人として白眼視していた時代です。いかに両親から聞いていたとはいえ、全く未知の世界に飛び込んでいくことを、よくぞ決心したと思います。一子は80年の人生において、3回、思い切った決断を下して自分の歩む道をリセットしていますが、これがその第1回目でした。
ケイリー牧師夫妻には、一子と同じ年頃の子供が4人いたので、一子は5人目の子供にしてもらい、イーストマンの4年間を楽しく過ごすことができました。東京では当時、他に借りるオルガンがなかったので、三越本店のオルガンで録音した演奏を送り、入学許可と奨学金を与えられていましたが、当然、オルガンだけではなく、すべての科目に必死で取り組みました。どれか一科目でも落第点を取ると、ただちに奨学金がうち切られ、それは帰国を意味するという厳しい条件だったからです。
イーストマンの4年間、一子は、当時アメリカの一流オルガニストだったキャサリン・C・グリーソンについて、オルガンの演奏技術をしっかりと学び、バッハから現代作曲家のオルガン曲まで広く知ることによって、オルガン音楽の面白さに引き込まれていきました。それにもかかわらず、コンサート・オルガニストの育成を目的とする、イーストマン音楽学校のオルガン科で学んでいることに、彼女は疑問を感じていました。自分は教会オルガニストになることを目指して留学したのではなかったのか? 結局、初心をどうしても忘れることができなかった一子は、イーストマンを卒業すると、かつて父、清三郎が在学したことがある、ニューヨークのユニオン神学大学の宗教音楽科に入学してさらに3年間学び、昭和32年(1957年)に修士課程を終了しました。
一子がイーストマン音楽学校を卒業したとき、それぞれ72歳と67歳になっていた両親は、4年間会えなかった一人娘が、さらに3年も外国で暮らすことに賛成しませんでした。当時、日本とアメリカを往復することは、容易なことではなかったのです。しかし、一子は両親を説得し、今度は自分で全ての手はずを整えてニューヨーク市に移り住みました。奨学金だけでは生活ができないので、著名な神学者、ラインホルト・ニーバー教授の家の住み込みメイドになり、日本の商社で通訳をしたり、夏休みにはリゾート地でベビーシッターをして自活しました。ユニオン神学大学は、教派にとらわれない自由な神学校で、世界各地から留学生が集まっていたので、国際的見聞を広めることができました。さらに、プロテスタントだけではなく、カトリック、東方教会、ユダヤ教まで含めた礼拝を、実際に体験して学ぶ機会が与えられた礼拝学のセミナーが大変興味深かった、と後で語っています。
昭和32年(1957年)、28歳のときに、7年間のアメリカ留学を終えて帰国した一子は、キリスト教音楽学校のオルガン科主任に迎えられ、同時に東京ユニオン・チャーチのオルガニスト、兼、音楽主任になりました。原宿にあるこの教会には、東京とその近郊に滞在する外国人を中心として、英語で礼拝する人々が集まり、牧師はアメリカから派遣されます。その他に、英語の礼拝に興味がある日本人も相当数参加しているので、特殊な国際的なコミュニティーを形成しています。
それ以後、一子はこの両方の職務に14年間とどまり、同時に日本基督教団が主催する夏期講習会で日本中を旅行し、各地の教会のオルガニストの育成に尽力しました。また、まだ日本にほとんどなかったパイプオルガンを所有する教会や学校から招かれて、オルガン・コンサートを開き、バッハ合唱団など、宗教音楽を演奏する合唱団のオルガニストを務め、変わったところでは、大阪万博でもオルガンを弾きました。
このように、念願の教会オルガニストになり、その育成に携わり、コンサートも開きながら、大変忙しく活躍していましたが、自分が目指していた教会オルガニストとはこういうものなのか、という自問自答を止めることができませんでした。この14年間は、何かが違うという思いに、なかなか答えが見つからない時代でした。その上、オルガニストを務める教会にパイプオルガンがないのも致命的でした。当然のことですが、東京ユニオン・チャーチのハモンドオルガンで、あるゆる工夫をして演奏してみても、イメージしているオルガンの音を創り出すことはできなかったからです。
この14年間、一子は一度も国外に旅行することができませんでした。その間に、大きく変わった世界のオルガン界を直接経験できないことにも、フラストレーションを覚え始めました。年齢も40歳を越え、外見的には充実した生活を送っていましたが、このままずるずる続けていたら、本当の意味で、教会オルガニストになるという初心を貫くことはできないのではないか、という疑念が去来し始めました。この閉塞状態に突破口を開くため、一子はオランダのハーレムで開かれた国際夏期オルガン・アカデミーに参加することを決心しました。アントン・ハイラー、マリー・クレール・アラン、L. F. タリアヴィーニなど、当時の代表的オルガニストを講師に、世界各地から集まったオルガニストたちと過ごしたアカデミーで、自分が“栄養不良”に陥っていたことを発見しました。事実、これ以後、一子は数年に一度、ヨーロッパで開かれるこの種のアカデミーに参加して、オルガン音楽を改めて学ぶようになります。
エルサレム・ドイツ教会のオルガニスト
久しぶりの国外脱出をしたとき、一子にはもう一つのプランがありました。それはエルサレムにいる石田友雄を訪問することです。一子が友雄と最初に会ったのは、彼女がアメリカ留学から帰国して、弓町本郷教会でオルガン・コンサートを開いたときでした。共通の知人がいて、コンサート後、その場で紹介されましたが、当時、一子はすでに錚々たる新人オルガニストだったのに対して、友雄はまだ東京神学大学修士課程の学生で、3歳年下の25歳でしたから、本人同士は勿論、誰もこの二人がいずれ結婚するとは考えませんでした。
ただ、当時、東神大で木岡英三郎氏についてオルガンを習い始めた友雄が、オルガンに夢中だったことと、共通の友人のグループがあったため、何かと二人は会う機会があり、間違いなく気が合うことを意識していました。その頃、玉川の聖公会神学院で一子がオルガン・リサイタルを開いたとき、友雄が自分から売り込んで、曲目の解説をしたことがあります。コンサート前に、友雄が延々としゃべっているので、頼むのじゃなかったと後悔したと後で聞かされました。つくばで始めた同じようなことを、すでに30数年前にしていたわけです。ともかく、当時、友雄は余りにも未熟でしたから、一子のお婿さん候補にはなりませんでした。
一子が友雄と知り合ってから5年後、1962年に友雄はイスラエルに留学し、それ以来、一度も帰国することなく9年の歳月が流れていました。この間、最初は、やや長い手紙も交換しましたが、だんだんクリスマス・カードぐらいになりました。ですから、一子がヨーロッパ旅行の帰り途に友雄を訪問してみようと思い立たなかったら、この二人は永遠にすれ違っていたでしょう。これは一子のひらめきでした。エルサレムで9年ぶりに再会して数日のうちに、二人は結婚しようということになりました。機が熟していたのです。
しかし、当時の友雄は40歳近くなっているのにまだ定職にもつかず、アルバイトをしながら古代イスラエル史研究に没頭している、社会的には相変わらず未熟な男でしたから、一子の父親がこの結婚に反対したのは当然のことでした。しかし、すでに81歳になっていた母親は、貴女が幸福になるなら、後のことは心配しないで行きなさい、と言ってくれました。その年の12月、職も友人たちも捨て、父親から勘当同然になった一子は、エルサレムの友雄のところに文字通り身一つで来ました。アメリカ留学に次ぎ、80年の人生で、一子が3回した思い切った決断の第2回目です。一子、42歳のときでした。
それからエルサレムで過ごした3年半は、友雄と暮らしながらオルガンに専念できたという意味で、一子の最も幸福な時だったかもしれません。収入が非常に限られていたので、コップ二つ、お皿二枚しかないというようなシンプルライフそのものでしたが、二人ともそのことは全く気にしませんでした。
それに先立ち、この年の秋に、エルサレム旧市内のドイツ教会が大改修をして、新たにパイプオルガンを設置し、オルガニストを探しているというニュースを聞きつけた友雄は、早速、教会に行き、近く自分と結婚する女性は素晴らしいオルガニストだから雇ってほしいと、教区長である牧師宛に置き手紙をしてきました。返事が来るかどうか自信はありませんでしたが、一子が到着した数日後、電話がありました。一緒に教会に行ってみると、予算がないから常勤のオルガニストは雇えない。(オルガニストがいないわけです)。だから、一回礼拝で弾く度に20ポンド(2,400円)の謝礼をすると言われ、余りに安い金額にびっくりしましたが、パイプオルガンがある教会のオルガニストになれるということで、一子は天にも昇る心地でした。アメリカから帰国してから14年間、弾かせてもらえるオルガンを探し回って苦労していたからです。
毎日、オルガンが弾ける境遇に戻って、一子は、それまで独りでこつこつ学んで来たオルガン曲を発表したくなりました。最初、教会は乗り気ではありませんでしたが、プログラム作りからチケット販売まで、事務は一切、友雄が引き受けるという条件で許可を取り、結婚した翌年春に、オルガン・リサイタルを開きました。350席が満席となり、プログラムの最後の曲、バッハの「ファンタジーとフーガ」 ト短調(BWV 542)を弾き終わると、感動した聴衆の拍手が鳴りやみませんでした。こういう聴衆に慣れていなかった一子がオルガン・ロフトで立ちすくんでいると、アメリカ人の友人が飛んできて、会堂正面に連れていってくれました。
翌週のヘブライ語、英語、ドイツ語の新聞で、批評家たちはこのリサイタルを一斉に称賛しました。これは、エルサレムという特殊な都市で起こった新しい社会的な文化現象の始まりとなりました。聴衆の大多数が、普段、教会には絶対来ないユダヤ人だったからです。それから3年間、ほぼ2ヶ月に1回の割合で、一子がユダヤ人の音楽家たちと協演したり、ヨーロッパから来たオルガニストを招いて教会音楽コンサートを開き、一子自身は年に2回、リサイタルを開きました。その他に、彼女は、テルアヴィヴのイスラエル・フィル(IPO)からも、オルガン・パートを弾いてほしいという依頼を受け、バレンボイムやバーンスタインという著名な指揮者の演奏に参加したこともありました。
それにもかかわらず、一子がコンサート・オルガニストになろうと考えたことはありませんでした。彼女はあくまでも教会オルガニストを目指していたからです。彼女がエルサレムで得た最も重要な経験は、礼拝の後で、会衆から受ける感謝の言葉の違いでした。アメリカ留学以来、東京ユニオン・チャーチでも、それまで一子は、もっぱらアメリカ人の礼拝のオルガニストを務めてきました。礼拝の後で、「今日のオルガン演奏は素晴らしかった」と誉めてくれる人は決して少なくなかったのですが、弾いた曲目について語る人は希でした。一子がもっぱら演奏したオルガン曲は、ルターからバッハの200年間に作詞作曲されたコラール、すなわち、ドイツ福音主義教会の教会歌に基づくオルガン編曲でしたが、コラールは、アングロサクソン系の人たちにはなじみの薄い讃美歌だからです。しかし、バッハが多数の素晴らしいコラール編曲を作曲している以上、世界中のオルガニストは、特に礼拝のためには、バッハのオルガン・コラールを弾かないわけにはいきません。
一子がずっと感じてきた問題に、エルサレム・ドイツ教会の礼拝に常時出席していた、大勢のディアコニッセ、すなわち、社会奉仕を目的とする、ドイツ福音主義教会の修道女たちが答えを与えてくれました。彼女たちは、一子が演奏する全てのコラールを知っているどころか、毎日、思いを籠めて歌っていました。ですから、一子の奏楽に対する彼女たちの反応は、演奏技術の賛辞ではなく、内面的共感でした。教会オルガニストを目指してきた自分が求めていたのはこれだった、と一子は悟りました。オルガン・リサイタルを開いてキリスト教嫌いのユダヤ人を教会に招き入れたことと共に、教会オルガニストとしてバッハのコラール編曲を弾くなら、コラールを理解する聴衆がいなければならないという悟り、この二つのことが、その約15年後に友雄と協力して一子が創立したバッハの森の原点だったのです。
この悟りと関連して、一子が長年抱いてきたもう一つの疑問が解けました。それは、オルガンを礼拝で弾くこととコンサートで弾くことは、どこが違うのか、という疑問です。演奏技術を誉めてもらうことが目的なら、どちらも同じことではないか、と思えたし、事実、それまで、それでいいのだ、後はオルガニストの信仰の問題だ、という意見も聞きました。しかし、オルガン演奏が、礼拝に参加している会衆の内面的共感と感動を呼び起こすことが目的なら、それは明らかにコンサートとは違うはずです。エルサレムにいたときは、まだこの理解をはっきり言葉にすることができませんでしたが、後でバッハの森でバロック時代の教会音楽を学ぶうちに、この時代の教会音楽家が好んで用いた“Soli Deo Gloria”、 ラテン語で「神にのみ栄光があるように」という言葉は、まさにこのことを意味しているのだと気づきました。実際、バッハの自筆譜の最後には、まるで署名のようにこの言葉が書き込まれています。平たく言えば、誉められるのは神様だけ、という意味で、裏返せば、教会音楽家は自分が誉められることを目的としない、という意味です。いずれにしても、一子は、自分が誉められることより、音楽を通して共通の感動を分かち合える友人と出会えることに、無上の喜びを感じていました。そうでなかったら、バッハの森はできなかったでしょう。
昭和49年(1974年)に、留学してから12年かかった、友雄の古代イスラエル史に関するPhD論文がようやく完成して、ヘブライ大学に提出されました。友雄は、ヘブライ大学の非常勤講師に採用されましたが、新設される筑波大学に来ないかという誘いを受け、住み慣れたエルサレムを引き払い、ハイデルベルクに8ヶ月滞在したのち、昭和51年(1976年)春に日本に帰国しました。一子は父親と和解し、母親は大変喜びましたが、娘が帰国するのを待って気を張りつめていたらしく、彼女は、私たちが帰国したわずか6週間後、4月14日に急逝しました。86歳でした。すでに筑波大学に奉職してつくばにいた友雄は、一子の母の最後に立ち会えませんでしたが、付き添っていた一子に母親は、「いつも友雄さんと一緒にね」と言ったと聞きました。
一生を通じて彼女の最もよい理解者だった母親の急逝に、一子はショックを受け、しばらくは親不孝だったと悔やんでいました。その後、しばらくの間、一子は、大塚に独りで住むと言い張る老齢の父親の面倒を見ながら、当時、交通の便が極度に悪く、陸の孤島と言われていた、つくばの友雄のところに通う二重生活になりました。やがて父親の認知症が進行したため、つくばに移転してもらい、それでも面倒が見切れなくなったので、結局、常陸太田の老人ホームに入居させていただきましたが、少なくとも週に1回、一子は自分で車を片道2時間運転して、つくばから常陸太田に通っていました。
こうして再びオルガンのない生活が始まりました。一度、エルサレムでオルガンを持つ楽しさを味わっただけに、耐え難いものだったに違いありません。しかし、一子は、湘南にオルガンの研究会を作ったり、木岡先生から紹介された八王子の東京純心短大でオルガンを教えたり、父を見舞うだけではなく、積極的に多忙な生活を創り出していました。それにしても、友雄と共に住み着いたつくば研究学園都市は、まだ半分も出来上がっていなかったこともあって、文化的に余りにも不毛な環境でした。そこで、一子は友雄と共同して、先ず自宅の狭いリビングを解放して、リードオルガン教室を開き、バッハを歌う会を始めたところ、それなりに人々が集まったので、1980年には「筑波バッハ合唱団」、後に「筑波バッハ合奏団」も組織して、大学会館、公民館、交流センターなどで活動を始めました。これらの活動を土台にして、1985年にバッハの森が創立された経緯と、その後のバッハの森については、来年の創立25周年記念の集いで報告するつもりです。
ただ、一子が長らく暖めてきたオルガン建造の夢が、バッハの森創設の原動力になったことについては、ここで語っておかなければなりません。建造資金をどうするか、ということを考える前から、一子は理想的なオルガンを探し求めて、特にヨーロッパ各地のオルガンを見学し、いろいろなオルガン工房の資料を集めていました。しかし、今は、専門的な話は避けて、オルガン建造に関する彼女の理念だけを伝えておきます。一子は、オルガンは、本来、公共的な性質を持つ楽器であり、個人が所有するものではない、と考えていました。教会オルガニストを目指す一子にとって、オルガンの第一の目的は、礼拝参加者が歌うコラール、すなわち讃美歌の伴奏をすることだったからです。そして、そのようなオルガンを、実際に自分が住むつくばに欲しいという思いがつのってきました。
昭和55年(1980年)に、一子の父が95歳で他界し、一子は大塚の土地と家屋を相続しました。当時はバブル期で、東京の土地の値段が高騰していました。ただし、一子が相続したのはこの不動産だけで、他に財産はほとんどありませんでした。約2億円と評価された不動産をどうするか、一子は友雄に相談しました。それだけの資産があれば、彼女が理想とするオルガンを建造するための公共の文化団体を創立することができる、と友雄は答えましたが、理想は同じでも、この世の仕組みをほとんど知らない男に相談したため、後で大変なことになりました。これでは、建設資金には足りても、運営資金が全く残らないことに気づいていなかったのです。しかし、ほんのしばらく考えただけで、彼女は自分が相続した全財産、2億円相当の大塚の土地と家屋、それに後で出てきた父親名義の3000万円相当の山林を、このプロジェクトに寄付する決断を下しました。こうして、その5年後にバッハの森が創設されました。これが、アメリカ留学とエルサレム行きに次ぎ、一子が下した3回目の思い切った決断です。そのとき彼女は51歳でした。
1985年にバッハの森が創設されてから24年間、一子は友雄と共同して、理想としたオルガンを建造し、バッハを代表とする教会音楽を通して、感動を分かち合う友人を集め、彼女が探し求めてきた教会オルガニストとして活動してきました。その詳細については、来年開く創立25周年の記念日までにまとめるつもりです。
ともかく、バッハの森の24年間、一子はいつでも元気でした。今にして思えば、元気すぎたのです。一昨年11月に貧血を起こし、精密検査を受けた結果、盲腸から大腸に転移したガンと診断されました。手術も放射線治療もできない手遅れ状態で、抗ガン剤の投与を受けることになりました。12月25日から4週間の入院で貧血は改善され、2週間に一度の抗ガン剤の投与を受けながら、3月にはバッハの森の活動に復帰しました。6月末まで、余りにも普通に活動しているので、本当にガンにかかっているのかと疑うほどでした。本人も、私は病気だけれど病人ではないと言って、悲観的な言葉は一度も語りませんでした。しかし、秋になって明らかに病状は悪化しました。2回、入退院を繰り返し、10月半ばからは腹水がたまり始めたため、満足に食べられなくなり、常時痛みに悩まされ、急速に体力を失っていきました。それでも10月18日に「コラールとカンタータ」でオルガンを弾き、11月3日に境町コーラス教室の皆さんにオルガンを紹介し、11月21日にセミナーに出席、11月24日に最後となったオルガン・レッスンをしました。この時はもう満足に歩けない状態でしたが、私が知らないうちに一人で奏楽堂に行っていました。後で聞きましたが、オルガン・ロフトに登って、オルガンを弾いたそうです。これが彼女がオルガンに触れた最後になりました。
一子は、12月2日に筑波メディカルセンター病院の緩和ケア病棟に入院し、4週間後、12月30日に亡くなりました。この最後の4週間、彼女は、日々進行する体力の衰えを感じながら、常に明るく前向きに、80年の生涯の中で、精神的に最も充実した日々を過ごしました。後で看護師さんから聞きましたが、枕元のテレビはおろか、音楽なども一切断って、じっと独りで思いめぐらしていたので、彼女の病室に入って行くと、いつも独特の静寂な空気に打たれたそうです。
入院の朝、もう自力で立ち上がれませんでしたが、絶対に自分の足で歩いて入院すると頑張りました。さすがに病院についてからは車いすに乗りましたが。病室は大変良い個室で、ベッドの枕元に電話があり、外からはかからないが自由に外部にかけられるから、私に連絡が取れると喜んでいました。入院した翌日の午後、私は担当医と面談し、1週間単位でしか余命を語れない病状だと告げられました。
しかし、本人は、来年は退院してバッハの森の活動に復帰するつもりで、新しい学習計画を作成中だと言っていました。もう抗ガン剤は効かなくなったから、この病棟では痛みの緩和をするが治療はしない、と告げられて入院したのですが、入院前日に福岡の漢方薬局から取り寄せた5種類の薬を朝昼晩と記録をつけながら服用を続けました。医者から見放されても、何とかして体力を回復して退院するつもりだったのです。
実際、腹水の除去とモルヒネの投与など、緩和ケアを受けたため、やや痛みも収まり、自分で少量の食事をとれるようになったので、入院の1週間後は、本人だけはより楽観的になっていました。この週の週末(6日)に、バッハの森では、イタリア人のオルガニスト、ギエルミを招いてコンサートを開きました。バッハの「いざ、来たりたまえ、異邦人の救い主よ」(BWV 659)のソロ音栓が、余りにもイタリア的に明るいので、いつも一子が弾くしっとりした音に慣れていた耳には異様だったと報告すると、アルプスの南の人にはドイツの陰影ある気候が分からないのよ、というような、いつもと変わらない会話を楽しんでいました。
入院、第2週に入って、良い看護を受けているため、さらに元気になったように見えましたが、確実に体力は落ちて行き、トイレに行くためベッドから立ち上がらせてもらった後の歩行も困難になってきました。しかし、リハビリをすればまた歩けるようになると信じ、指導の下にベッドの中でリハビリに励んでいました。ただ、しすぎないようにと注意を受ける始末でした。
また、入れ替わり立ち替わり看護に当たる20数人の医師と看護師さん全員の姓名を覚え、ひとりひとりを名前で呼び、友達のような会話ができることを楽しんでいました。当然、興味を持つ人たちには、バッハの森の活動を話し始めました。看護してくださる方々との出会いが、とても嬉しかったらしく、ある看護師の方の誕生日にカードを贈り、「あなたたち天使の皆さんと出会えたことは私の生涯の宝です」と書いていました。また、ある看護師さんが、 「石田さん、苦しいこととか痛いことがあったら、それも私たちに分けてくださいね」とさりげなくささやいてくれたと、感動していました。
その週末、13日に、バッハの森ではクリスマス・コンサートが開かれ、この日、私は見舞いに行けませんでしたが、翌14日、いつもの通り、お昼前に一子から電話があり、バッハの森のクリスマスで使用したクリスマス物語のスライドとスライド・プロジェクターを持って来て欲しいと頼まれました。持って行くと、手のあいている看護師さんたちが狭い病室に満員になって待っていて、私が読むクリスマス物語とそのスライドを熱心に見てくださいました。それからサプライズがありました。この日は友雄の77歳の誕生日でした。突然、彼女たちが「ハ ッピーバースデー」を歌ってくれたうえ、一子から私にカードと一輪の赤いバラが贈られ、全員で記念写真を撮りました。
第3週の初めに私は再び担当医と面談しました。驚くほど頑張っているが、年を越せるかどうか分からない。今のうちに会うべき人、言い残すことがあったらそうして欲しいが、本人は相変わらず前向きに生きることしか考えていない様子だが、どうするか、と言われました。私は、普段から何でもよく話し合っているから、今更、特別に話すことは何もないと答えました。しかし、本当は彼女の死期が近いことを認めなかったのは私であって、一子ではなかったことが、後から分かりました。
この週半ばの朝8時半頃、一子から電話がありました。いつもはお昼前に電話があって、午後の見舞いのときに持って来てほしいものとか、その他の用事を頼まれるのが日課になっていたので、これは早朝初めての電話でした。その電話で一子は、「私、生まれ変わったの。あなたのこととか、バッハの森のこととか、これまでずっと心配していたけれど、私が心配しなくても、全部、計画された通り、物事は動くようになっていることがよく分かったわ。来年はきっと善い年になるわよ」と言いました。
20日(土曜日)に比留間恵さんが、パソコンを持って来てくれて、バッハの森のクリスマス・コンサートの一部をイヤフォンで一子に聞かせてくれました。とても良い演奏だと喜んでいました。22日(月)には私の妹の本多和子が見舞ってくれました。そのときもなお元気な様子を見せていましたが、体力はすっかり落ちていて、自力で寝返えりも打てなくなっていました。
第4週の初め、23日(火)の夕方、私が午後の見舞いを切り上げていつも通り帰ろうとすると、「今日はまだ帰えっちゃだめ。残って夕食を食べさせていって」と頼みました。もう自力では、スプーンでジェリーを食べることができなくなっており、いつもは看護師さんにお願いするのだ、と言っていました。このような介護が初めての私が不器用に食べさせると、「下手ね、もっとゆっくり、もっと少しずつ」と文句を言いながら、嬉しそうに、おいしいと言いながら食べていました。後から思うに、明らかに、これは死ぬ前の準備でした。本当は、相当前から、彼女は自分の死期を悟っていたのです。しかし、他方、最後まできちんと漢方薬を飲んで、生きる努力を続けていました。それに余りにも明るく平安な顔をして前向きのことを言うので、本人は死期を悟っていないのではないかと、医師も含めて、皆、だまされてしまっていたのです。丹念につけられた漢方薬の服用記録は、25日で切れています。
26日から、医師も驚くほど急激な変化が起こりました。その朝、また8時半頃、今度は看護師さんの助けを借りて、しかし本人が「なるべく早く来てくれる?」と電話をかけてきました。後から考えると、意識の混濁が始まることを予感していたのです。すぐ行ってみると、たまに薄く目を開けることしかできず、痛みに耐えながら、うつらうつらしていましたが、突然、はっきりと明るい声で「お葬式の準備をしてね」と言いました。これは彼女が自分で自分の終わりを語った初めての言葉です。私はあわてて「まだ早いよ」と馬鹿な答えをしてしまいました。しばらくすると、「帰る用意をしているの?」と聞くので、「自分で歩けるようになってから帰ることになっているでしょ。まだだよ」と答えると「ああそう」と返事をしました。これらの言葉が混濁した意識の中で語られたのか、はっきり分かって語ったのか分かりません。ともかく、この日以後、私は午前中から行き、一度帰宅して昼食を食べてから、午後も行って彼女を見守っていました。呼吸が苦しいらしく、大きく口を開けて息をし、苦痛で顔をゆがめていました。私は手をさすりながら、「ここにいるよ、大丈夫だよ」とささやいていました。
28日(日)の午前中のことです。もう目を開ける力は全くなくなり、時々かすかにうめくような声でつぶやくので、そのたびに彼女の顔に耳を寄せて、何を言っているのか聞き取ろうとしていました。すると突然、両手を高く挙げました。びっくりして、「どうして欲しいの?」と顔を寄せると、そんな力がまだ残っていたのかと驚くような力で、私の首をしっかりと抱き寄せました。その瞬間、愚かにも私はその意味が分からず、怖くなって抱きついたのかと思いました。私はベッドの枠越しに中腰の不安定な姿勢のまま、頬を寄せてしばらくじっとしていましたが、やがて彼女の腕の力が抜けたので立ち上がり、ベッドの枠をはずして「これならちゃんと抱けるよ」とささやきましたが、もう彼女は動こうとしませんでした。その時、やっと分かりました。一子は、混濁した意識から一瞬抜け出し、最後の力で私に「お別れ」をしたのです。
この後、48時間、一子の肉体はなお生きる努力を続けていました。私は朝から晩まで付き添い、時々、車で10数分の自宅にもどって休みました。29日も夜10時頃になって、看護師さんが「この調子なら帰宅なさっても大丈夫ですよ」と言うので帰って寝たとたん、午前2時に電話があり、すぐ来るようにという知らせを受けました。すぐ行って枕元に座っていましたが、相変わらず頑張っているので、遂に7時頃、私自身が疲れ果て、自宅に一旦戻ったところ、8時40分に看護師さんから電話があり「一寸離れている間に息が無くなっているのを、今発見した。亡くなったのは8時35分と考えられる」と知らせてきました。まるで、誰もいないのを見計らって死んでいったように思えました。
すぐ駆けつけてみると、それまでの苦しい息と痛みでゆがんでいた顔は、平安そのものの静かな表情に戻っていました。静かに呼吸をしているのではないかと思わせるほど、まるで生きているような様子に驚きました。実際、一緒にいた看護師さんも同じことを言っていました。
こうして、満80歳に18日とどかない、2008年12月30日午前8時35分に一子は永眠しました。
一子は死にましたが、私たちは生きています。この、いつでも、どこでも、誰にでも起こることを自分で初めて経験してみて、この3ヶ月、知らなかったことがこれほどあったのか、と驚いています。私はまだ混乱しており、とうてい皆様に全てを語ることはできませんが、辛うじて整理できた、二、三のことをお話しさせてください。
第一の新しい経験は、理性でコントロールできない“悲しみ”という感情です。いまだに、何の脈絡もなく、いきなり悲しくなり、こみ上げてくる涙を抑えられなくなります。なぜ?と自問自答するのですが、答えが見つかりません。
人間は死ぬものだ、ということを、父を10歳、母を14歳で亡くした私は、随分若い時から知っているつもりでした。もしかしたら、両親を亡くしたとき、私は若すぎたのかもしれません。そのため、私が認識したつもりになっていた死は、自然現象としての死だったのでしょう。ともかく、大人なら誰でも、死は自然現象だということを知っています。しかし、そう自分に言い聞かせてみても、こみ上げてくる“悲しみ”を押さえることはできませんでした。
それとは別に、もう一つの死があります。新聞やテレビで報道される死です。病死であれ、事故死であれ、毎日、誰かが死んでいますが、これらの方々の死に涙することは滅多にありません。これは社会現象としての死です。
一子の死から、私は、自然現象でも社会現象でもない死があることを知らされました。“愛する者の死”です。これが、いきなり悲しくなる原因だということは分かりました。ではどうしたらいいのでしょうか? 原因が分かってみても、相変わらず答えはありませんでした。
ここで、もう一つ大切なことが分かりました。それは、“愛する者の死”は、死んだ人を愛した人だけの問題であって、他の人々にとっては、自然現象であり、社会現象にすぎないということです。“愛する者の死”は、全く主観的な話であって、誰にでも共通する客観的な出来事ではないのです。
バッハの森は、1月を服喪期間として休館しましたが、2月、3月の2ヶ月間、私たちは、バッハの「ヨハネ受難曲」を学びました。教会の暦によると、丁度、イェス・キリストが苦しみを受け、十字架につけられたことを記念する季節だったからです。そこで、受難曲のもとになった福音書の受難物語を読みました。すると、これまで何度も読んだことのある受難物語が、全く新しい視点から読めることが分かりました。受難物語とそれに続く復活と昇天の物語は、“愛する者の死”を経験した人々が、その後、突然襲ってくる悲しみに耐えて生きた記録に違いない、と思えてきたのです。
確かに、イェスの死と一子の死を単純に同一視することはできません。しかし、“愛する者の死”を悲しみながら、残された者は生きて行かなければならないという状況は、イェスの弟子たちも、私たちも同じではないでしょうか。何よりも、イェスの亡骸を埋葬した3日後から、“復活したイェス”が弟子たちにふっと現れ、すっと消えたという福音書の物語は、愛する人に死なれた私たちが、突然悲しくなるという現象とそっくりだ、と気が付いたのです。
このような理解に基づいて、これから皆様とご一緒に歌うコラール「イェスの苦しみと痛みと死」を選びました。イェスの受難を歌う、全34節からなる長いコラールの第33節に、バッハは4声のモテット風合唱曲を作曲しました。
イェスよ、あなたの受難は
私のまことの喜びです。
あなたが受けた傷と冠と嘲りは
私の心の牧場です。
私の魂は薔薇の上を歩みます、
私がそのことを思うときに。
ですから、天にひとつの所を
私たちに与えてください。
この歌詞を、新しい視点で読むと、次のように理解されます。
まず「イェスよ」という呼びかけは、「私の愛する人よ」を意味します。「あなたの受難は私のまことの喜びです」という歌詞は、「どうしたら、あなたの受難が私の喜びになるのでしょうか」という問いかけです。その次の2行も同じように、「どうしたら、あなたの苦しみと死は私の心の慰めになるのでしょうか」と読むべきです。要するに、歌詞の前半は、どうしたら、愛する者の死を、悲しみから喜びに変えことができるのか、という問いかけです。
後半はその答えです。先ず「私の魂は薔薇の上を歩みます、私がそのことを思うときに」という歌詞は、「これまで、楽しいことも悲しいことも、すべてを分かち合って生きてきましたが、あなたが苦しんで死んだ今、一緒に生きたときのことを思い出すと、まるで天国の薔薇園を一緒に散策しているような喜びで満たされます」とパラフレーズします。
最後は「ですから、天に一つの所を、私たちに与えてください」という願いですが、この「天」は、死んでから行く、いわゆる「天国」ではありません。地上で生きる私たちが目指す所です。それをイェスは「この世に属さない国」とか、「神の国」と呼びます。「目に見えない世界」と言ってもいいでしょう。分かりにくいですか?
でも“愛する人の死”は、それと主観的に関わった人にとっては、自然現象や社会現象である“目に見える死”、すなわち、客観的事実とはならず、自分の存在を根底から揺り動かすショックになるのです。“愛する人の死”が、普段忘れている「目に見えない世界」を思い出させるからです。こうして喚び起こされた「目に見えない、この世に属さない世界」、すなわち「天」を目指して生きれば、“愛する人の死”の悲しみは喜びに変わる、とこのコラールは歌ます。
では私たちにとって、「天」を目指す生き方とはどういうことでしょうか? 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」というイェスのたとえを借用すると、一粒の麦が地に落ちて死ぬように、一子は死にました。問題は、彼女と分かち合った多くの思い出と、彼女がその命を注ぎ込んで残したバッハの森を継承した私たちが、「豊かな実」を結ぶよう、生きるかどうかです。「もう私は心配しない。来年はきっと善い年になるわよ」と彼女は言い残しました。本当にそうなったときに、私たちの悲しみは喜びに変わるはずです。(石田友雄)