MEMORIES/メモリーズ/思い出

*一子は幼い頃から最後まで、ありとあるゆる人たちとの“出会い”を楽しみ、実際、多くの良い友だちに恵まれた幸せな人でした。寄稿していただいた「思い出」から、そのを垣間見ることができます。これら皆様の「思い出」を、出会いの時代順に並べてみました(T)。

すべてなし終えて幸せな一生を送られた方でした

 昔々、昭和6年(1931年)の春、東京女高師(現在のお茶の水女子大)付属幼稚園の「カワノクミ=川の組」にご一緒に入園してから、小学校、女学校と約15年間、ずーと同じ学び舎で過ごしました。幼稚園時代のカズコチャンは、ご両親から大切に可愛いがられて育った一人っ子の甘えん坊という印象でした。お弁当を、いつも最後にお昼休みが終わる頃まで、ゆっくりと召し上がっていらした、のんびりしたその頃の光景が、今も目に浮かびます。

 でも、いの間にか、ご自分の意志をしっかり持った、強い一子さんになり、戦後まだ海外留学が困難で夢だった時代に、単身アメリカに留学されてご自分の道を進まれました。この間の経緯について、3月22日の「記念する集い」で、友雄先生から詳しく伺い、長いお付き合いでしたのに、知らなかったことがいかに多かったか、改めて一子さんの素晴らしさに感動しました。

 あの「集い」は、本当に一子さんにふさわしい会で、日がたっても思い出されて感動がよみがえります。久しぶりのバッハの森は、しっとりと落ち着いて、25年の歳月を感じました。美しいハンドベルの響きに続き、数々の音楽、朗読とどれも心に沁み通るようでした。あのような会を開かれた皆様の一子さんに対するお気持ちが深く感じられ、彼女に聴かせてあげたい・・・と、おかしなことを考えてしまいました。

 前後しますが、『バッハ森通信』を拝見したとき、お二人のお写真が、まず目に飛び込んできました。一子さんのおだやかな美しいお顔! 今までで一番安らいだ表情をなさっているように思えました。そして文を読ませていただいて、今更ながら、一子さんのお人柄、最後まで前向きに生きておられたことに、ただただ感じ入りました。本当にすべてなし終えて、幸せな一生を送られた方だったと思います。(長岡佐栄子)

一子さんと一緒に体験した戦争中の思い出

 私は旧女高師付属高女(現在のお茶の水女子大付属中学)1年生のとき、初めて一子さんにお目にかかり、弓道部の道場で親しくなりました。その頃、私は痩せっぽちでしたが、顔だけは丸かったので、一子さんが「貴女、ビスケットみたい」とおっしゃいました。それが渾名になって、皆から「ビス」と呼ばれるようになりました。

普通の女学生の生活は3年生の終わりまでで、昭和19年4月、4年生になると学徒勤労動員となり、最初は学校で半日授業、半日勤労でしたが、やがて全日勤労になりました。学校の教室を2教室ほど学校工場として高射砲弾の信管部品の検査業務をしていました。11月からは王子の造兵廠に出勤すること となり、一子さんと私は同じ区隊に配属され、ご一緒に旋盤などを使って、高射砲弾の信管部品の製造を担当しました。やがて一週交替で夜勤が始まり、午後7時から朝の5時、6時まで働きました。

 こうして女学生らしい生活が全くなくなった中で、唯一の楽しみは、夜勤時の行き帰りや休憩時間に、空を仰いで天の星座を眺め、研究することでした。灯火管制のため真っ暗でしたから、現在では想像できないほど、東京の夜空は素晴らしいものでした。私の兄が中学生のときに夢中だった天文学の本なども持ち出し、一子さんと私は星空に魅せられ、星座の世界にのめりこんでいきました。

 昭和20年3月10日の東京大空襲のとき、私たちは夜勤で造兵廠にいたので、そこの防空壕で恐怖の一夜を明かし、夜明けとともに家に帰ってみると、九段にあった私の家はなくなっていました。幸い私の家族は全員無事で、焼け残った都内の親戚の家に全員で身を寄せました。数日後、造兵廠に出勤すると、「貴女、なんにもなくなっちゃったの」と涙を浮かべて私の話を聞いてくださった一子さんは、翌日、赤い筆箱、大小のノート数冊、鉛筆数本と消しゴムなどを、一子さんが愛用していたピンクのきれいな風呂敷に包んで持って来てくださり、風呂敷ごと私にくださいました。私は、温かいご友情に涙が止まりませんでした。私の方は、5月25日の空襲で再び焼け出されましたが、背負い袋に入れておいた筆箱とノートは無事で、戦後、専攻科時代にもずっと使わせていただきました。何しろ全く物がない時代でしたから。この筆箱は今も大切に持っております。

 昭和20年3月に、女学校本科を4年で繰り上げ卒業しましたが、一子さんも私も、その上に3年ある専攻科に入り、学徒動員はそのまま6月半ば過ぎまで続きました。

 空襲が激しくなったので、主事先生のご決断で、学校疎開をすることになり、専攻科は造兵廠の動員を解除してもらい、6月末、新潟県糸魚川に近い山寺、日光寺に疎開しました。約60名が参加、一子さんも参加なさり、全員と寝食を共になさいました。今度は新潟の被服廠に動員となり、町の国民学校(現在の小学校)に、女学校から送ったミシンを運び込んで、兵隊用のシャツやズボン下を縫っていました。8月15日の終戦後は、作業がなくなり、付近の山の中に借りた農地で農作業をしました。田んぼの稲が色づき始めた頃、蝗を沢山取って来て、美味しい佃煮にしたことを覚えています。

 米兵が進駐した東京もそれなりに落ち着いたという知らせを受け、10月初めに帰京、10月中は全員で校内を清掃整備し、11月から授業が始まりました。進駐軍の命令で弓道を含む日本武道の教育が禁止され、学校でも、一子さんは家政部、私は国語部と別れ、卒業後、一子さんはアメリカに留学、他の生徒はほとんど家庭に入って結婚しました。

 一子さんが帰国されてから、8歳の長男にしばらくピアノを教えていただいたり、いろいろとお世話になりました。お母様の木村文先生と一子さんの思い出は、生きている限り、私の心から消えることはないでしょう。(飯尾靖子)

もう一目、会いたかった!

 一子さん!『バッハの森通信』のお二人仲好しのお写真を拝見しながら、お幸せだった一子さんの一生のことを思い返しています。

 木村文先生のお嬢様からあなたが脱皮するきっかけは、アメリカ行きだったのでしょうか? あれよあれよと言う間に、一子さんは強くなっていきました。垂水の海岸に夜、ご一緒に出かけていっておしゃべりしていたら、へんな男の人がいてびっくりしたことや、うちの、今はもう50歳を過ぎた息子どもがまだ幼くて、あなたの作ったチョコレートケーキをべたべたなめていたことなど、いろいろ思い出します。そして、石田友雄さんとの出会いのお話。本当にとても嬉しかった。離れていても心は通っていて、阪神淡路大震災のときは、バッハの森の皆様から、物心両面のご支援を受けました。

 神戸とつくばは遠くて、バッハの森へはなかなか行けませんでしたが、いつも『バッハの森通信』を拝見して、すぐ傍でおしゃべりしているような気持ちでした。もう一目、会いたかった! 2年前か3年前にホテルニューオータニでみんなでお目にかかったときの様子、目に浮かびます。あの時はとてもお元気だったのに・・・。もう一度、バッハの森をお訪ねします。またその時に。(小野豊子)

オルガン音楽砂漠時代のオアシスでした

 一子先生との出会いは、今から半世紀も前になります。1958年の夏、国際キリスト教大学(ICU)でキリスト教音楽講習会が開かれ、北海道から九州まで、全国から百何十人もの講習生が集まりました。

 参加してみると、分科のパイプオルガン・クラスには6人しか生徒がいませんでした。しかも、レッスンに使うオルガンが当時のICUにはなかったので、午前の講義が終わると午後は毎日、青山学院まで電車で通いました。その実技の先生が、米国留学を終えて帰国されたばかりの木村一子先生でした。

 講習生としては、お側に寄るのも恐れ多い、光り輝く存在に見えましたが、行き帰りの電車で一緒に通ったお陰で、親しくさせていただきました。当時は、東京に残っているオルガンが非常に少なく、しかも鳴りっぱなしのパイプや、そっと抜かないと抜けてしまうストップなど、ひどい状態でしたから、それをいかにだましながら弾くかということを、先ず教えていただきました。それでも、数少ないパイプオルガンで、最高のオルガニストからレッスンを受けることができる嬉しさに感動しておりました。

 この年、1958年は、私個人にとって忘れることのできない年になりました。その年の12月に、飯田橋のルーテルセンターであげた私どもの結婚式で、一子先生に演奏していただいたのです。チャーチモデルのハモンドオルガンしかなかったのですが、快く引き受けいただき、数曲のコラール前奏曲の後で華やかな「前奏曲とフーガ」変ホ長調(BWV 552)を弾き、それに東京ユニオンチャーチの聖歌隊を連れて来て2曲の合唱曲をプレゼントしてくださいました。結婚式というよりコンサートみたいになり、花嫁(かく申す私)は感涙にむせぶばかりでした。

 時は移り、1980年代となって、湘南と東京の教会オルガニストの友だち数人が集まり、筑波大学教授・石田友雄先生の夫人となっておられた、一子先生をお迎えして、コラール前奏曲の研究会が始まりました。月に1度、横浜の紅葉坂教会のオルガンを使わせていただき、各人が数曲ずつ準備してくるグループレッスンでした。先生からは各人の演奏に関するコメントの他に、毎回取り上げるコラールについての解説や、関連曲の豊富な資料をいただきました。オルガンだけ弾いている者は誰もいなかったので、「二足のわらじ会」という奇妙な名前の、しかし贅沢な会でした。この会は、1985年にバッハの森が創立されるまで続きました。

 1981年11月に、このグループが発起人となり、紅葉坂教会の協賛を得て、「石田一子・オルガンコンサート」を開くことができました。トランペット奏者の津堅直弘氏を客演者に招き、会堂満員の聴衆と、一子先生の素晴らしい演奏を聴く喜びを分かち合うことができました。

 一子先生は、日本のオルガン音楽砂漠時代のオアシスでした。命の水、命の糧として、私たち教会オルガニストを支えてくださった方です。今、先生亡き後、許される間、先生に分けていただいたものを生かしながら、歩んで行きたいと願っております。(竹内博子)

「コラールはきれいです」とお返事をいただきました

 バッハの森の前身、筑波バッハ合唱団が、研究交流センターの2階会議室を練習会場にして活動を始めたころのことです。先ず、カンタータの終曲のコラールを歌いましたが、そのハーモニーの美しさに驚いて、隣で歌っていらっしゃった一子先生に、思わず「きれいですね」と言ったところ、「コラールはきれいです」というお返事をいただきました。

 そのころ、コラールの何たるかも知らなかった私ですが、それ以来、合唱団で歌うコラールとカンタータの歌詞について、友雄先生がしてくださる解説を通して、オルガン曲のテーマであるコラールが、ルターに始まるドイツ教会の讃美歌であることが分かり、目が少しずつ開かれていきました。

 最初は石田先生ご夫妻がお住まいになっていた、竹園の公務員宿舎の1室で、一子先生からリードオルガンを教えていただきました。オルガンは息をする楽器であること、讃美歌の伴奏は息継ぎをしっかりすること、コラールに基づくオルガン曲も、息継ぎが大切なことなどを教えていただき、ますますコラールの魅力に惹かれていきました。

 やがてバッハの森が建設されると、まず草苅オルガンが設置され、定期的な「コラールとカンタータの会」が始まりました。このころは、最初に「キリエ」の朗誦とオルガンの交唱に続いて、「いと高くいますみ神にみ栄え(Allein Gott in der Hoeh sei Ehr)」を必ず会衆斉唱で歌いました。私にとっては、このコラールがバッハの森のテーマソングになりました。

 実は、1955年頃、私は、アメリカ留学中の一子先生のお留守宅の木村家を、大塚仲町にお訪ねしたことがあります。お母様は、字違いのカズコに親しみを覚えてくださり、一子先生のことをいろいろお話になり、練習オルガンを見せてくださったうえ、昼食までご馳走してくださいました。1979年につくばに移住したとき、タウン紙に掲載された石田一子先生の記事を読み、木村一子先生と同一人物だと確信して連絡を取りました。それから1988年につくばを離れるまで、バッハの森の活動に参加させていただきました。大塚仲町のお留守宅をお訪ねしたときは、一子先生からオルガンや讃美歌を教えていただくようになるとは、思ってもみないことでした。

 3月22日の一子先生を「記念する集い」で、一子先生が目指しておられた音楽が、コラールに基づく教会音楽であったことをうかがい、「コラールはきれいです」とおっしゃった一子先生の言葉が、先生のお考えの結晶であると思いました。初心者の域を脱しない私にも、コラールを教えてくださったことは、何よりの感謝です。有り難うございました。(今野和子)

バッハの森を満たしていた一子先生の思い

 純心短大のオルガン科で、初めて一子先生にお目にかかったのは、つい先日のことのように思えるのに、もう四半世紀以上が過ぎました。今の私は、あのころの一子先生の年齢に近くなりました。勉強不足で頼りのない私の眼をのぞき込んで、くりくりした瞳で、可笑しそうな顔をなさった一子先生のことが思い出されます。

 先日の一子先生を「記念する集い」で、あのころの私の年齢に近づいた娘を、ようやくバッハの森に連れていくことができました。独立学園でパイプオルガンを弾き始めた娘は、オルガンに興味を持ち始めており、彼女にとってバッハの森は、ぞくぞくする、ため息がでる、不思議で嬉しい空間でした。何でも吸収できる年頃の娘が、本物と出会えることを願って、一緒にバッハの森に一子先生を訪ねることを夢見ていましたが、ちょっと遅かったことが悔やまれます。バッハの森のような、教会の枠を越えて心ときめく教会音楽を体験できるところが、近くにあればどんなにいいでしょうか。

 「力の限り、心を合わせ声を合わせてコラールを歌っていると、日常から離れてコラールの世界に入っていく喜びを体験できるのです」と、以前、一子先生は『バッハの森通信』に書いておられました。このお言葉通り、先日の「記念する集い」では、一子先生の思いが響きわたり、コラールがバッハの森を満たしていました。「来年は善い年になるわよ」と言われた一子先生の希望が、響き合っていました。そして展示されていたお写真と、友雄先生のお話から、若き日の一子先生と新たにお会いすることができました。

 こんな素晴らしい教会音楽を通して、神様が喜んでくださることは何か、感性を研ぎ澄まして追求して生きてこられた一子先生に出会ったのに、私は今何をしているのだろうか、と一瞬立ちすくみました。変な気負いをなくして、楽しんでオルガンを弾ける歳になりましたが、現在、私には向き合うオルガンがありません。しかし、与えられた場所で、周囲に求めるのではなく、自分で響き合いを求める生き方をしたいと願っております。(渡辺恵子)

永遠の少女のような方でした

 今、3月22日の一子先生を記念する集いを想い、滞在中のドイツで、『バッハの森通信』第102号1面の友雄先生と一子先生の何ともむつまじく寄り添っておられる写真を改めて見ております。出発前に電話で友雄先生の無念の思いをお聞きしました。この集いには、先生方の“家族”が集まり、友雄先生に改めて希望と力を与えてくださることと確信しております。

 一子先生に出会う前に、私は大学で友雄先生にお会いして、バッハの森創立前の燃える思いを聞かせていただいた幸せを経験した者です。友雄先生には、学問を初めとして実に多くのことを指導していただき、多くの夢と挑戦を教えていただきました。今、自分が細々と果たしていることの一つ一つが、先生の影響を示しております。そして長い間、指導していただいいているうちに、先生の良き伴侶であられた一子先生にお会いしたのです。

 その後は、ハンドベルの講習などを通じて、一子先生からも指導を受けることができました。一子先生のお姿は、この『通信』の記事と写真にも示されているように、他人への直裁な興味と関心、出会いへの意欲に満ちた永遠の少女のような方だったと思います。人は皆、地上の命から解かれます。そのときまで、一子先生のように、少女のように直裁に人との出会いを求めて生きていきたいものです。また一子先生は、ご自分の“仕事”を見定め、その訓練を受け、多くの賜物を得られ、その“仕事”に忠実に進んで来られました。その歩みに倣って、私も歩ませていただきたいと願っております。

 いつも明るく、開放的だった一子先生にはすっかり騙されてしまいました。今は忙しいけど、そのうち時間を見つけ、ゆっくりお会いできると漠然と思ってしまっていました。もう顔を合わせてお会いできません。うかつでした。お会いして申し上げたかった一言をここで申し上げます。

 「一子先生、いろいろな夢を分けていただき、本当にありがとうございました」。(菊地純子) 

美しい真の人の生き方を残してくださった一子さんへ

 一子様、あなたは本当に優しい方でした。この世の生き物をこよなく愛していました。貴女が小さな小さな命あるものをいとおしむ姿に、いつも私は救われておりました。命あるもの ー 野の花、木の芽、動物に接するときの貴女の喜びの笑顔が目に浮かびます。それは美しい、石田一子という方の真の姿でした。

 貴女は、本当に無駄なく生涯を全うされ、貴女が誠実に生きてこられたように生涯を終えられました。貴女に出会えたことに、心から“ありがとう”と申し上げます。私が貴女と最後に会ったとき、「私は一番の相談相手の友雄がいるから安心」と幸せそうに話されました。それは羨ましいほどに御主人を信頼しておられる姿でした。いつも貴女が「私の子供たち」と言って愛しておられた、バッハの森の“子供たち”を、これからも天の国から見守り、導いてください。(橋本周子)

ぬくもりで覆ってくださいました

 バッハの森に伺うと、一子先生が声をかけてくださるのでは、と未だに錯覚してしまいます。亡くなったことを、なかなか受け止められないでいます。

 一子先生に初めてお目にかかったのは、1982年ですから、かれこれ26年も前になります。私にとってつくばの生活は、石田先生ご夫妻なしでは始まらなかったように思います。つくば万博より前、ここが陸の孤島と言われていた頃、婚約者の彼から「筑波には素晴らしいバッハ合唱団がある。是非、聴いて」と誘われ、大学会館で開かれたコンサートに伺いました。東京に住んでいた私は、荒川沖駅からバスに乗って長い道のりをゆられているときは、とても不安で心細く思えましたが、コンサートでは、いつしか音楽に引き込まれ、他では味わったことのない心の充足感を覚えたことを、懐かしく思い出します。

 結婚してつくばに住み、すぐ筑波バッハ合唱団に参加させていただき、そこで一子先生に初めてお目にかかりました。そのとき、先生の親しみの籠もった、純真な、大きな瞳の中に吸い込まれそうな気がして、とても満たされた思いになったことを覚えています。ノバホールもアルス図書館もない時代でしたが、私のつくばの生活は楽しいものになりました。

 バッハの森創設前に、一子先生とご一緒させていただいたリコーダー・アンサンブル、1983年に合唱団の人たちと、土浦真鍋小学校創立100周年のピアノ贈呈式に招かれてピアノを弾いた私に、一子先生が「貴女のピアノ、なかなかいいわね」と誉めてくださったこと、バッハの森創立後は、教えていただいたオルガンのレッスン、子育て中はバッハの森の子供会で優しく導いてくださったこと、一つ一つが、何とも言えない、一子先生の温かさや純粋さがぬくもりとなって身体が覆われたように感じたことを思い出します。

 そして、何と言っても、一子先生のオルガン演奏を聴くたびに、技術だけではない、上手さだけでもない、音楽だけが一人歩きしているのではない、何かを強く伝えようとするご意志に引き込まれ、敬虔な気持ちにされたことを忘れることができません。 (平賀邦子)

今はまだ「思い出」を書くのはとても辛いです

 1984年、バッハの森の建設が始まろうとしていたころ、「教会音楽研究会」に参加したいと竹園のお宅をお訪ねしたとき、一子先生に初めてお目にかかりました。最初、リードオルガンを教えていただき、バッハの森が建ってからはパイプオルガンのクラスにも参加しました。そして、昨年10月23日に受けたレッスンが最後になりました。一子先生は、お身体の具合が悪いことを少しも見せず、いつものように予定の時間をオーバーしてレッスンをしてくださいました。終わった後も、ソファに座って猫のベンをなでながら、オルガン曲やレッスンのことなど、お話してくださいました。私の個人的都合で、最近はレッスンが不定期になっていたので、お目にかかると、「レッスンして欲しいの? いつがいいの?」と先生から声をかけてくださいました。今でも事務室にいると、先生の声が聞こえたような気がして、ハッとします。

 オルガンのレッスン以外に、ハンドベルや研究会でも教えていただきましたが、楽しく学び、楽しく忘れてきました。「あなたたちは、まるでざるね」と呆れたお顔で、ちょっぴり怒って・・・。でも根気よく教えてくださいました。私には、一子先生と私の間で流れてきた25年の時が、このまま永遠に続くのように思われていました。

 今、一子先生の「思い出」を、と言われても、余りにも鮮やかすぎて、書くのはとても辛いです。もしかしたら、ずっと時が過ぎれば、もっと沢山、懐かしい思い出を書くことができるようになるかもしれませんけれど・・・。(横田博子)

感謝の思いを籠めて

 20年以上も前のことになります。音楽関係の友人を案内かたがたバッハの森を初めて訪問しました。そのとき一子先生にお目にかかり、先生のオルガン演奏を聴かせていただきました。その素晴らしい音色に感嘆し、以後、バッハの森のコンサートやレクチャーに度々参加させていただくようになりました。

 それまで、バッハの音楽といっても、器楽曲中心の鑑賞にとどまっていましたが、以後、オルガン曲、カンタータ、受難曲など、ジャンルを拡大し、バッハ理解を深めることができるようになりました。すべて一子先生、友雄先生のお陰と感謝しております。

 一子先生にあっては、来年、創立25周年を迎えるバッハの森の成熟を見ずして先立たれたことは、さぞご無念のことと思いますが、今後の発展については、天国よりお見守りいただきたいと念じております。一子先生に対する感謝の思いを籠めて、過ぎし日々を回顧いたしました。(岩瀬邦夫)

闇の向こうから差し込んできた一筋の光

 バッハの森の生みの親、そして育ての親として、友雄先生と共に歩んでこられた一子先生の悲報を伺ったとき、私は崖から底無しの闇に突き落とされたようなショックを受けた。ましてや、生涯最良の友、最高の理解者、同志、そして最愛の奥様を失われた友雄先生の胸中はいかばかりか、愛する者を失った喪失感と闘っておられるお苦しみを思うと心が痛み、言葉に詰まる。

 だがそのような深い悲しみの只中にありながら、先日の一子先生を「記念する集い」で、私は最後に闇の向こうから一筋の光が差し込んできたように感じ驚いた。バッハの森を愛するすべての人々の思いが凝縮されたプログラムの中に、まるで一子先生がおられ、導いてくださっているような気がしたのである。言い換えれば、当日のプログラムが、一子先生がこれまで目指してこられたバッハの森の集大成であるような気さえしたのである。

 バッハのオルガン編曲「深き悩みより我なんじに叫ぶ」に続いて、レクイエム、キリエが歌われ、それから幾度となく繰り返される「深き悩みより我なんじに叫ぶ」には、友雄先生の心の叫びが聞こえるようで、胸が張り裂けるような思いであった。しかし、集いの終わりで、十字架の死によって贖われた救いを信じるコラールを歌い、最後に一子先生のように清らかに一つとなったハンドベルの点鐘の響きが静かに小さく、そして遠くに消え去ったとき、バッハの森が今、第二の歩みを始めたと思った。「一粒の麦」は、確かに地に蒔かれたのである。

 「真の礼拝音楽」を追究し、私たちに「共感する喜び」を与えてくださった一子先生。それはすべて「神の栄光のために」であったことを、この日、友雄先生のメディタツィオから知らされた。

 一子先生の愛くるしい、きらきらと輝く瞳は、眼鏡の奥からいつも私たちを温かく迎えてくださった。しかし、音楽に関しては、いい加減な妥協はご自分にも私たちにもなさらず、厳しく立ち向かっておられたから、オルガン音楽研究会のたびに、私は先生の眼鏡を曇らせ、ひたすら恐縮ばかりしていた。これからは主と共に、友雄先生とバッハの森の行く手を見守りお導きください。一子先生に出会うことができた喜びを心から感謝して・・・。(中村東子)

手鍋の代わりに大きな愛を提げて押しかけた一子先生

 先日(3月22日)は、厳粛な中にも温かさを、悲しみの中にも安らぎと希望の光を与えてくださった素晴らしい「記念する集い」、有り難うございました。白百合の上から微笑みながら応援していらっしゃった一子先生を記念して、音楽も友雄先生のお話しも、とても感動的でした。

 私がバッハの森に通ったのは、平成3年度の1年間だけでしたが、ハンドベルや合唱に参加させていただき、石田先生ご夫妻やバッハの森に集まる皆様から、多くのことを学ぶことができました。

 平成10年に長野市で開催された教育学会で、長野の公立小学校現場の教育実践について発表させていただき、夕食後のパーティーでは、ハンドベルの紹介もいたしました。ハンドベルをどこで学んだか、という質問を受け、バッハの森の石田一子先生のところで、と答えると、一人の方が、「一子先生はお元気かしら。私、学生時代からのお友だちなの」と、話しかけてこられ、「記念する集い」でうかがった、一子先生が人生2度目の大選択をなさって、友雄先生と結婚された時のエピソードを聞かせてくださいました。

 「あの時は、友だちが皆で、よりによって何でエルサレムなんかに行くの、と一子さんの決定に反対したのよ。夏に友雄さんを訪ねてきた一子さんのお話によると、友雄さんのところには大鍋が一つしかなくて、何でもそこに入れて煮込んで食べているんですって。しかも1週間でも2週間でも、そのまま食べるというから、大変なところよ。手鍋提げても、と言うけれど、鍋はあるから、何を持って行こうかしら、とおっしゃっていたのを憶えているわ。その後お二人は幸せに暮らしていらっしゃるのね」とお話しくださいました。生前の一子先生に、このお話を確かめそこねたのは、本当に残念です。

 今回の「記念する集い」でうかがった友雄先生のお話から、一子先生は手鍋の代わりに大きな愛を提げて、押しかけ女房(?)をしたということが、よく分かりました。そしてお二人でバッハの森を創り上げ、ここまで育てて来られました。友雄先生が一子先生を本当に愛していらっしゃって、今もその思いは新婚当時と変わらないこと、一子先生あっての友雄先生、友雄先生あっての一子先生だったことなど、見ていれば分かることなのですが、今回のお話とエルサレムでの写真からよく伝わってきました。

 そんな最愛の一子先生に先立たれて、後に残された友雄先生のお身体が心配です。バッハの森で学ぶ子どもたちのために、一子先生の分まで長生きして、私たちをご指導くださいますよう、心からお願い申しあげます。(正村寿満子)

一子先生を思うと「私の魂は薔薇の上を歩みます」

 一子先生が「疲れやすくなった」とおっしゃるのを聞くようになったのは、一昨年の11月末の頃だったと記憶します。(後からうかがうと、その頃ガンという診断を受けていらっしゃいました)。同じ頃、私の体調にも変化が起こったことを思い出します。その後、私のおなかはどんどん大きくなりましたが、一子先生は少しずつ痩せていかれました。

 今でも折に触れて思い出すのは、最後にお会いした昨年12月20日、病院にお見舞いしたときのお姿。久しぶりに見ると、丸顔だった先生はすっかり面長になっておられました。でも口調はそのまま。「戻ってからのこと、いろいろ考えているの」と、目をキラキラ輝かせながらお話しになる様子は、確かに「病気ではあるけれど病人ではありません」という一子先生のお言葉通りの印象でした。訃報を聞いたのは、お見舞いのわずか10日後のこと。それからひと月ははただただ悲しいばかりで、イェスが死んで復活してから40日間、弟子たちのところに突然現れては消えたという聖書のお話そのままに、一子先生のことを突然思い出しては泣いていました。

 春分に向かって寒さが緩んで来るに従い、私の心も落ち着いてきたと思っていたのですが、3月22日の一子先生を「記念する集い」では、最初のハンドベルの点鐘を聴いた途端に心が乱れ、涙が止まらなくなり、指揮者の私がクワイアの皆さんを巻き込む事態になってしまいました。一子先生を偲んで「記念する集い」に集まった方々の中には、私がバッハの森に来たばかりの頃、音楽造りを一緒に楽しんだ人たちもおられたため、当時のことを思い出してしまいました。それで涙が溢れてきてしまったのです。

 15、6年前に、幼くて小生意気な私を、先生方はじめ周りの皆さんが寛大な心で受け入れてくださったお陰で今の自分があることを、歌にならない声で歌いながらしみじみ思いました。まさに合唱で歌った「イェスよ、あなたの受難は/私のまことの喜びです」の中の「私の魂は薔薇の上を歩みます/私がそのことを思うときに」でした。

 一昨年、思いがけずもおなかに宿った子は、今や9ヶ月のわんぱく娘。この子の中にも一子先生の恩恵がたくさん詰まっていることを思いながら、寛大な心で溜息をつきつき育てています。(比留間恵)

茶目っ気のある可愛い方でした

 一子先生と最初にお会いしたのは、私がヨーロッパに留学中の頃だったと思います。北ドイツの片田舎で、ユルゲン・アーレント氏が修復した歴史的楽器に夢中になっていた頃、そのアーレント氏が日本で建造した楽器があるというので、バッハの森を訪問すると、一子先生は友雄先生と一緒に温かく迎えてくださいました。帰国後は、ヨーロッパのオルガン文化との逆カルチャーショックで悩んでいた私を、よく理解してくださいました。

 最後にお会いしたのは、一昨年の3月でした。私が企画したジャン=クロード・ツェンダー氏のオルガン演奏会にお見えになりました。その数日後に、ツェンダー氏がバッハの森を訪問することになっていたので、しきりに「どんなものが好きかしら? 何がダメなの?」と尋ねられたことを鮮明に思い出します。一子先生の笑顔、どこか茶目っ気のある可愛いらしさ、それ以外に思い起こせるものはなく、あれから2年も経たないうちに天に召されるとは、青天の霹靂でした。

 オルガニストとして、日本で草分け的存在であった一子先生は、その道の大先輩だったにもかかわらず、とても謙虚な方で、一度として“先輩風”を吹かすようなことはありませんでした。それは、先生が人生をかけて大切にしてこられた、オルガンと教会音楽に対する大いなる愛と情熱に裏打ちされた謙虚さだったと思います。若輩の私も大らかな愛情のうちに、友人のように受け入れてくださいました。お互いに確認し合ったわけではありませんが、音楽家としての自分が主役ではなく、神の栄光を現すために、自分はその僕として働く、といいう理念を共有していたと思います。

 先生は強い信念や気丈さをお持ちの一面、音楽に対しては、少女のように純粋で、いつも音楽の素晴らしさに目を輝かせていらっしゃいました。そんな先生の一途さ、真摯さが、今も私のうちに宝物のようにきらきら光りながら残っています。一子先生に出逢えたことに心から感謝しています。(和田純子)

ちゃんと見ていてくださいました

 12年ほど前のある日、オルガンを習いたいと思い、バッハの森を訪ねました。まだ筑波大学の院生だったころです。そのときは、オルガン音楽の何たるかを全く理解しておらず、ただバッハの音楽が好きなのと、他の人がやっていない、新しいことを学びたいという素朴な気持ちしか持っていませんでした。

 早速、一子先生が指導なさっていたオルガン音楽研究会に参加してみましたが、こんな軽い心構えの参加では長続きするはずがありません。いつの間にかオルガンのことは忘れ、その代わりに、合唱に熱中するようになりました。こんな私を見て、ある日、「すっちゃさんは、お歌が好きなのね」と一子先生がぽつんとおっしゃいました。その時は、この言葉に特別な意味を見い出せませんでしたが、後になって、一子先生は、音楽に向かう私なりの姿勢を評価し、音楽を大切に思う私の気持ちを理解し、応援してくださっていたのではないか、と考えるようになりました。

 気分がすぐ歌声に出てしまう私は、合唱に参加していても、集中していたり、散漫になったり、いろいろなのですが、普段は何もおっしゃらない一子先生は、私のことをちゃんと見て、或いは、聴いていてくだっさったのだなぁ、と気づきました。それ以来、バッハの森で学ぶことに、よりいっそうの愛着を感じるようになりました。(徐 淑子)

熱心に誘ってくださいました

 今から10年以上も前、バッハの森のフェスティヴァルに、聴衆の一人として参加しました。少々遠方に住んでいたので、こんな素敵な世界で活動できる方々が羨ましく思いましたが、自分が参加するようになるとは考えませんでした。そのとき初めてお目にかかった一子先生は、カンタータを歌ってみたいという私の言葉をちゃんと覚えていてくださって、その翌年、カンタータを歌うワークショップを開くから参加しないか、というお知らせを送ってくださいました。とても嬉しく思い、その年の1月から、ワークショップの準備として始まった合唱練習に参加させていただき、ワークショップでは、バッハの復活祭のためのカンタータ、「キリストは死の縄目につながれ」(BWV 4)を感動のうちに歌いました。

 それでもまだメンバーになる決心がつきませんでしたが、秋になって一子先生からお電話があり、「歌いにいらっしゃいませんか」というお誘いを受け、ついに決心して毎週通うようになりました。ただ、当時、コラールのコの字も知らなかった私は、とても不安でしたが、何年か続けているうちに、ハンドベルにも参加して、一子先生の優しくも厳しいご指導を受け、コラールがより理解できるようになったと思いました。今後も一子先生だったらどうおっしゃるかしらと考えながら、皆さんと一緒に続けたいと思っています。

 今年1月から、ご縁があって、横浜の関東学院大学の職員となって働くことになりました。毎週、昼休みにチャペルのオルガン・コンサートがあり、コラール前奏曲などの演奏を聴きましたが、バッハの森のオルガンと雰囲気が似ているので、どなたが建造したオルガンかと尋ねたところ、何と「バッハの森から譲っていただいた草苅オルガンです」と言われ、本当にびっくりしました。目の前にあるオルガンで、かつて一子先生が演奏なさっていたと思うと、ただ涙、涙でした。これは、神様と一子先生のお導きに違いないと感動し、感謝しております。(三縄啓子)

先生でも生徒、時に少女、いつも元気な一子先生、元気をください

 一子先生は先生だけど生徒だ。常に学び続け、発展途上だった。だから、決して威張らない。

 一子先生は時に少女になる。たった一音のベルの響きが何と美しいか、コラールのワン・フレーズがどんなに心を楽しませるか、目をキラキラさせて感動なさる。

 一子先生はいつも元気だ。元気とは元の気と書く。赤ちゃんの時から持っている気を、一子先生は持ち続けた。病気できっとものすごく苦しくて辛かったのに、ベルを振る姿はやっぱり元気だった。

 分かったことが一つある。一子先生はもういないけど、思い出したとき、私の中に確かにおられるということ。そうして私に元気をくださるということ。(伊藤香苗)

「オルガンだけを教えたのではありません」と一子先生は仰った

 「貴女にオルガンだけを教えるつもりは毛頭ありません」。オルガン教室の申し込みにバッハの森を訪ねた11年前のこと。初対面の一子先生にそう言われた。「勉強会に出席しなさい。クワイアにも出なさい。それから、隣の貴方も歌いなさい」と、一緒にいた夫にも言われた。彼は目が点になっていた。オルガンを習うとはこういうものか、と面食らいながらも生悟りして「石田の上にも三年」とバッハの森に通いだした。

 3年経った。理解どころか、一子先生への謎は深まるばかり。高い理想と広い経験が察せられたが、それをバッハの森で開花させようと躍起になっていらっしゃるその情熱は、時として痛々しいほどだった。アーレント・オルガンがバッハの森に建造されてから8年間、独力で試行錯誤された後、オルガン教室を開くことになったと聞く。「教えることは苦手よ」とよく仰っていたが、開講にあたってどのような思いがあったのか。

 また繰り返し、「オルガン・レッスンの希望者を誰も断ったことはない」とか「弾き方を決して押しつけない」とも仰っていた。これが先生のレッスンに対する姿勢であり、矜持なのだろうと感じたものだ。実際、3年目からは「コラールとカンタータの会」が始まり、私も当番でオルガンを担当することになったが、そのためレッスンで多くのことを教えてくださった最後には、いつも「今、私が言ったことは全部忘れて(本番は)弾きなさい」と言われていた。

 「下手には下手なりにやるべきことがある」と、初級者へのモットーを口にされるとき、敢えてその中にご自身も入れて、(半世紀におよぶキャリアがありながら)、先頭に立って私たちを引っ張ってくださった。それは本当に頼もしく、愉快でさえあった。

 オルガン教室の受講生は、2、3人のグループ・レッスンを受ける他に、オルガン音楽の研究会やセミナーに必ず出席することになっている。そこでコラールとオルガン編曲を学び、互いの演奏を聴き合う。音楽の専門家も、私のような素人も、自由に意見を言うことができる空間だった。初めて参加したとき、課題曲をある人は音楽的に分析し、また他の人は歌詞に言及したが、私はそのクリスマスの曲について「ドイツの冬は寒そう」と一言感想を述べることしかできなかった。一子先生は、「アハハ」と愉快そうに笑って許容してくださった。

 ある時点から、オルガン教室のモットーは「詩を朗読するように歌い、歌うように弾く」へ進化して定着した。その頃から、一子先生のオルガン教室のテーマはコラールに焦点が絞られた。友雄先生と協力して、「コラールとカンタータの会」を中心に勉強会が回るようになり、アーレント・オルガンは練習の予約で一杯になった。

 そして10年が経とうとしていた。一昨年の12月、一子先生がご病気になられ、オルガン教室は中止になった。「病気にならなくても、もう終わりにしようと思っていた」、「一人の先生について10年もすることはないのよ」と仰った。少々怒っていらした。「結局、貴女はオルガン曲が弾きたいだけ。バッハの森が目指していることには興味がないのね」。「そんなことはありません」と私。「いいえ、そうです」と先生。結局、一子先生の想いを理解することはできなかった。

 去年は退院されても3月までは静養なさっており、その後も希望者の個人レッスンを見てくださるだけで、定期的なレッスンは中止のままだった。秋に教会音楽セミナーで、コラール「深き悩みより我なんじに叫ぶ」を取り上げたとき、バッハのオルガン編曲(BWV 687)を私が担当したので、この曲のレッスンを受けた。今年、3月22日の一子先生を「記念する集い」で、この同じ曲を私が弾いた。生前から当人とお弔いの用意をしていたことになる。 

 最後のレッスンは11月24日だった。12月のクリスマス・コンサ−トで弾く曲をどうしても見ていただきたくて、無理をお願いしたのだ。一子先生はオルガン手前の舞台の段差を上がりきれず。舞台の上に転んでしまわれた。が、すぐに私の肩に手をかけて起き上がり、「だらしない、だらしない」と自分自身を叱咤しながら、オルガンの急な階段をどんどん登って行かれた。私の演奏を一通り聴かれた後の第一声は、「さぼってる」だった。「さぼってません」と私。「いいえ、さぼってます」と先生。そして弾いてみせてくださった。するとすぐに分かった。またやってしまったのだ。これまで何10回、何100回と同じことを教わったか。教わったのに、やらなかっただけ。さぼっていたのだ。

 そして「あと見て欲しいことは?」と仰る。弾いてみせてくださることが、すでに大変な譲歩なのに、更に身体に鞭打って、まだ私に教えようとしていらっしゃる。「先生、もう十分です」と申し上げた。

 3月22日の「記念する集い」当日、オルガンの奏楽を担当させていただいた私は、緊張と不安の中で一子先生の言葉を探した。耳たこになっているオルガニストの心得でも、「コラールとカンタータの会」で弾く前によく言ってくださった、「貴女は弾けますよ」という励ましの暗示でもなく、私の心に虹のように大きくかかったのは、「私は貴女にオルガンだけを教えたのではありません」という、初対面の日にいただいたお言葉の成就だった。(古屋敷由美子)

忘れることができない生きた音

 石田一子先生との出会いは、1999年12月のクリスマス・コンサートでした。オルガン教室を探してインターネットで偶然探し当てたバッハの森に、横浜から出かけて行きました。そこで先生が演奏された、バッハのオルガン編曲「いざ、来たりたまえ、異邦人の救い主よ」(BWV 599)は、今でもその呼吸、旋律の流れ、そしてその響きを、忘れることができない大変素晴らしいものでした。本当に生きた音がしていました。

 早速、オルガン教室に入れていただけないか、とお願いしましたが、試しに弾かせていただくと、即、断られてしまいました。全く弾けなかったのです。趣味で弾いていた、家のキーボードとは全く異なる繊細なタッチなので、初心者の私にはとても扱えるような楽器ではなかったからです。

 それでも、その音や先生の演奏を忘れることができず、1週間、自宅のキーボードで一生懸命練習して録音し、翌週のコンサートに持って行きました。再び先生のオルガン演奏を聴いた後で、帰りがけに、入り口の所で自分の録音を聴いていただきました。大変無理なお願いでしたが、オルガンを教えていただけることになり、翌年1月から毎週土曜日にバッハの森に通うことになりました。ただし、クワイアに参加すること、という条件がつけられました。結局、比留間恵さんについて発声の練習もすることになり、毎週土曜日は朝から晩まで、バッハの森で音楽に浸りきる充実した日々が始まりました。

 一子先生は、「おぉ、神の小羊、罪なく」(BWV 1095)をタッチの練習のため紹介してくださいました。大変きれいな曲で、今でも記憶に残る1曲です。先生は大変熱心に教えてくださり、多くのことを学びました。「メトロノームは使わないこと」「エチュードではありません」というような先生の言葉が、今でもオルガンを練習するときに思い出されます。先生の教えは受け継がれていきます。有り難うございました。(松下雅弘)

烈火のごとく叱られました

 一子先生には、いろいろなことを教えていただきましたが、中でも強烈に印象に残っていることが二つあります。ハンドベル・クワイアに参加させていただいてから5年ほど経ちますが、仕事の忙しさや怠惰な性格から、しばしば集合時間に遅れました。ある時、それを一子先生に咎められ、烈火のごとく叱られました。これほど激しく叱られたのは、大人になってからはもちろん、幼い頃から考えても、初めての経験だったような気がします。その時の先生のお姿から、ここまで本気になって、ハンドベル・クワイアとそのメンバーのことを考えてくださっていることに驚き、メンバーであるからには、しっかり責任を果たさなければならないと悟りました。私にとって、ハンドベルにとどまらず、自分の生活そのものを考え直す契機になったと感じています。

 これまで私は、独唱することを学んできたので、音楽は自分の楽しみのためであり、一人で演奏したり、味わうのが当たり前でした。しかし、バッハの森で合唱やハンドベルに参加して、音楽と音楽に籠められた精神は、みんなで共有してこそ素晴らしいものだということを学びました。あるコンサート後の反省会でその話をすると、一子先生が、「私もそう思ってバッハの森を始めたのよ」とおっしゃいました。この一言をいただいたことがとても嬉しく、大きな自信になったことを覚えています。今、音楽を教える立場にあって、この一言は毎日の指導の指針であり、心の支えになっています。

 一子先生に教えていただいた歳月は決して長くありませんでしたが、音楽観のみならず、自分の人生も変革していただいたと思っています。これからも先生の教えや思い出を忘れることなく、歩んでいきたいと思います。一子先生、ありがとうございました。(岩淵倫子)

「求めよ、さらば与えられん」という一生

 一子さんが亡くなる2週間前と10日前の写真を拝見して、「何とさわやかな明るい笑顔をなさっているのだろう」と感心いたしました。「記念する集い」では、石田先生から、一子さんが歩まれた人生についてお話をうかがい、「求めよ、さらば与えられん」とは、一子さんの人生のことだと思いました。初めから約束されているわけではないことを、一途に求める心の大切さを思いました。これからもバッハの森で聖書を学び、バッハ音楽の心を味わっていきたいと思います。(田中秀明)

熱心に伝えてくださいました

 職場の長期休暇を利用して、2007年度の初夏のシーズンに約2ヶ月間、バッハの森に滞在して、様々なプログラムに参加させていただきました。

 中でも、とても楽しみにしていた一子先生のオルガン教室は、本当に充実したものでした。オルガンについて豊かな経験と知識をお持ちのうえ、その人に必要なことを察知して、的確なアドバイスをしてくださる、本当に良い先生でした。当時、オルガンのことでとらわれていた固定観念から解放して、潜在的に私が求めていたものを示していただきました。今の私は、一子先生なしにはありません。

 オルガン教室以外の思い出も沢山あります。いい歳を過ぎているのに独身の私に、「待っているばかりじゃ駄目よ」と、はっぱをかけてくださいました。一子先生は、今の私と同じ年頃のとき、いつ帰国するか分からない友雄先生をエルサレムに訪ねて行った話をして、人生には決断すべき時があると教えてくださいました。

 その日は夕方から別の講座があったにも関わらず、オルガン・レッスンが終わった後、楽譜を見せていただくことになりました。いつの間にか、一子先生の生い立ちやオルガン歴に話が発展してしまい、気がついたら2時間以上経っていました。そこに、その頃すでに疲れやすくなっていた一子先生を気遣った友雄先生が現れ、一子先生は叱られました。2ヶ月しかバッハの森に滞在できない私に、伝えるべきことをできるだけ伝えようとしてくださった一子先生の熱心さを、ひしひしと感じられた出来事でした。

 バッハの森に滞在した日々、一子先生がいろいろな形で私のことを心にかけ、愛情を注いでくださっていたことを、温かい気持ちと一緒に思い出します。一子先生と出会えたこと、そして教えていただいたことは、今もこれからも消えることのない、私の大切な宝物です。(鳥飼真紀子)

種を蒔いてくださいました

 一子先生を「記念する集い」も終わり、またいつもと変わらない日々を過ごしていますが、今の気持ちは、ずっと聴き続けていられると思っていた音楽が、終わってしまった時の気持ちに近いと思います。

 今、一子先生と言われて真っ先に思い浮かぶのは、会議室のソファーで猫のベンちゃんと一緒に微笑んでいらっしゃる光景です。3年前に、偶然参加したクリスマス・コンサートで、一子先生に初めてお会いしたときは、何と元気で勢いのある方かと思いました。先生の勢いに呑まれて、思わずクワイアだけではなく、ハンドベルや声楽アンサンブルにも参加するようになったような気がします。

 しかし、これらの活動に参加してみると、バッハの森の活動は、当初思っていたものよりずっと奥が深く、余り深く考えずに飛び込んだ身には、何とも大変だったのですが、今思えば、初心者も経験を積んだ人も、一緒に参加できるような場となるよう、さり気なく配慮していただいていたことが分かります。気づくのが少々遅かったかもしれませんが。

 最近、畑を借りて野菜を育て始めたので湧いたイメージですが、バッハの森でこれまで過ごした日々、私という畑に一子先生が種を蒔いてくださったと思います。この種をちゃんと育てて実を結ばせるには、まだまだ学ばなければならないことが沢山あるようですが、バッハの森には良い友だちがおり、私一人ではないので、きっとできるだろうと思っています。

 先日の一子先生を「記念する集い」には、普段お見かけしない方々も沢山お集まりになり、バッハの森を通して、思っていた以上に多くの方々とつながっていることを、改めて教えられました。これからも、バッハの森の皆さんと一緒に活動していける幸運を噛みしめながら、私の中に一子先生が蒔いてくださった種を立派に育てたいと思っております。(小保方智子)

本当に立派に去って行かれた方でした

 一子先生のご親族は、もうほとんどおられないらしい。その代わりに、良い友だちを大勢作ってこられた方だった。わずか2年と数ヶ月だったが、バッハの森のコンサートのときなどに、一子先生と友だちのように話し合っておられる、何とも素敵な雰囲気の方々をお見かけしたときなど、そう感じないではおられなかった。

 去年の12月31日、その前日の朝、亡くなられた一子先生のご遺体を火葬場に送る直前、午前11時から12時まで、「送る集い」がバッハの森奏楽堂で開かれた。友雄先生が、しばしば声をつまらせながら、一子先生の最後の4週間の様子を、間にコラール斉唱を挟みながら、報告してくださった。この報告は、世を去る前の一人の人についても、長い(永いとは書きません)別れの前の夫婦の姿についても、滅多に聞くことができないと思われる素晴らしいものだった。(より詳しくは、本号の「メディタツィオ」に収録されると聞きました)。

 本当に立派に去って行かれた。或いは、それまで立派に生きて来られたから、あのような去り方ができたと考えるべきか。病気のため力を失なっても、駄目な存在になってしまったなどとは思わず、立派に生きることができる人間の一人として、誇りをもって、生涯を全うされた。最後までワクワクする心、人に対して生き生きとした興味をもつ心を失われなかった。

 棺の中の一子先生のお顔は、亡くなった翌日なのに、はっきりした、ご年齢もとても80歳になられようとしていた方とは見えなかった。生前のお顔に現れていた生気が、いかに多くの霊的、精神的な力で占められていたかと思った。だから、亡くなる10日前のお写真を見ても、お痩せになったということの他は、全くお変わりないお顔だった。

 一子先生の記憶。1. 声楽アンサンブルが始まる直前にドアから顔だけ出して、「あたし要る? 要らない?」(オルガンの通奏低音の要不要の意味)。2. お話ししていると、眼がキラキラしていた。3. ひとの誕生日や近親者の命日を驚くほどよく覚えておられた。4. オルガン・ロフトからクワイアを眺めておられた丸いお顔。 

 茶目っ気のような雰囲気を感じさせる方で、コラールの中では「高きみ空より、我ここに来たる」が結構お似合いでした。何気ないご助言、例えば「料理はできた方がいいわよ」とかが、へんに印象的だったのはなぜでしょうか。

 短い間でしたが、一子先生に出会い、教えを受け、いろいろとお話しできたことは、実に恵まれたことでした。(池田福太朗)